
日本の「平和憲法」の理想主義を字義通り受けとることはできない。戦後、日本の占領統治にあたったマッカーサーは天皇を中心とした日本の国家エリート集団を利用したが、侵略を糾弾するアジア諸国の声に抗って天皇を免責する絶対条件が日本の武装解除だった。沖縄を米軍の軍事要塞にすれば日本が「戦力放棄」しても大丈夫だというのがマッカーサーとヒロヒトの共通確認だったのである。戦後憲法が格調高いのは天皇の戦争責任を免罪するためであり、憲法9条は沖縄の米軍基地、日米安保条約と不可分だった。一歩引いて戦後日本を俯瞰すれば、侵略戦争の加害行為を居直ってアジアで孤立したまま、沖縄を米国の軍事植民地に提供してその戦争を支えてきたのが「平和国家」の実像である(※11)。日米安保が実体で憲法9条はその影だという見方もできる。現在、日米安保体制そのものが変質して9条が形骸化しつつあるが、日米安保という実体を問わずに「憲法9条」という影を追いかけてもこれをつかまえることはできない。変質していく日米軍事同盟の是非こそが問題なのだ。安保破棄という対案をどこまでリアルに構想できるか―現在の反戦運動の最大の課題はこの点にかかっていると思うし、そのためにもアメリカの覇権システムとその中の日本の位置を問い直す必要がある。
「2012年体制」
「2012年体制」と呼ばれる現在の統治機構も冷戦後の国家間システム再編の帰結である。現在の日本の統治機構も国内動向を見ただけでは理解しづらいが、米国の覇権システムの変容という脈絡でとらえるとわかりやすい。
91年ソ連崩壊を転機に、日本でも大きな政治的流動化が生じた。軍事・外交を米国に丸投げし、国内では財の配分に専念した戦後日本の統治システム=55年体制が機能しなくなったことから、外交を含めた統一的な国家意思によって官僚機構を上から指導する政治機構が模索されるようになった。奇妙なことに、「政治改革」をめぐる議論は「二大政党制」「政治主導」という形式論ばかりで、そもそもどんな「政治」が官僚を指導すべきか中身の議論がなされたことはない。しかし今日振り返ればある程度の傾向は存在した。一つは、冷戦対立がなくなったのだから日本は「国連中心主義」を掲げてアメリカから自立すべきだという論調で、これは同時に新自由主義への反発、アジア諸国との和解や戦後処理を重視する傾向を伴った。もう一つは、相対的に弱体化するアメリカ覇権システムを補完する潮流で、自衛隊と米軍の一体化、新自由主義的な規制緩和、外資への市場開放、対米依存とアジア蔑視が対になった立場である。こうした傾向ははっきりした党派的表現をとらず、権力ゲームの動向次第でたえずグルーピングが入れ替わり、両者の境界は漠然として党派間の線引きとも一致しない。
対米自立の動きが顕著になったのが93年細川政権の「樋口レポート」(日米安保同盟より国連中心主義を優先)、05年郵政民営化への「造反」(「郵貯資産を米ヘッジファンドに渡すな」という国民新党の結成)、09年「鳩山の乱」(辺野古新基地建設の見直し)などである。そのたびに米軍やジャパンハンドラーの圧力、小泉のパフォーマンス、米国をボスと仰ぐ官僚・メディアの逆襲などを通じて対米自立的傾向は叩きつぶされ、米国と米軍の意向に国家意思を一元化させるシステムが形づくられた。小泉政権と第2次安倍政権はその画期をなす。
政治改革の結末
結果的に見て「政治改革」は、弱体化した米国の覇権システムに日本の国家機構を完全に組み込む形で完成した。「官邸独裁」とも言われるが、これこそ「政治主導」の実現形態であって、誰も想定していなかったのは「主導」すべき政治の中身が米国の対日政策そのものだった点である。昨年末に国民に何の説明もなく「安保三文書」を決定した過程を見ると、もはや日本政府は「アメリカ帝国の日本総督府」ででもあるかのような様相を呈している。
バラマキ政治の背景
現実の政策と国民的利害との乖離は開く一方だが、あくまでも選挙を経ないと権力を維持できないため、安倍元首相とその後継者は後先考えないバラマキを政権維持の最大の手段にしてきた。毎年のように国家予算額は過去最高を更新しているが、日銀の金融緩和策が継続困難となり、大盤振る舞いの限界が近づいている。
国家的アイデンティティの危機も顕著だ。自民党と旧統一教会の結託を見てもわかるように、現在の自民党員は権力を自己目的にしており、保守主義やナショナリズムといった思想とは無縁である。巷に跋扈する「ニッポンすごい」の大合唱、これと対照的な中国・朝鮮にたいする侮蔑的態度は、何らかの思想や信念の表れというよりも、米国の下僕という己のみじめな姿から現実逃避する麻薬のようなものであろう。「信教の自由」を掲げて旧統一教会を擁護する唯一のメディアがフジサンケイというのも「2012年体制」が抱える矛盾を示してあまりある。安倍元首相銃撃事件はいずれやってくる地殻変動的な動揺の兆候だと思われる。事件を契機に漫画家の小林よしのりが安倍元首相とサンケイ知識人を「売国勢力」と罵倒しているが、こうした「保守」陣形の分裂は天皇制や日本民族主義といった右派イデオロギーが根底から動揺していることを示す。
このシステムが長期安定するとは思えないが、一方では米軍戦略への日本の組み込みも着々と進んでいる。日本の国家予算は米国製高額兵器を買いとるATMと化し、自衛隊は米軍指揮下で戦う第二米軍になりつつある。台湾有事を煽る米軍の要求に応じて南西諸島のミサイル拠点化が進み、全国民間空港の軍事化が進められようとしている(注12)。ウクライナ情勢は他人事ではない。没落する「アメリカ帝国」の捨て駒となり、沖縄だけでなく日本全土を戦場にして中国とミサイル戦争を戦うのかどうか。アメリカの覇権システム、その一環である日本の国家機構とどう向き合い、いかに抵抗するのか―その立脚点を求めて筆者も模索している。(おわり)
(注11)古関彰一『「平和国家」日本の再検討』(岩波書店)、ガバン・マコーマック、乗松聡子共著『沖縄の〈怒〉 日米への抵抗』(法律文化社)などを参照
(注12)「中国を挑発するCSIS報告書」(『未来への協働』ウェブ版)
