国際通貨基金(IMF)の本部ビル=米・ワシントンD.C

「多様性」という言葉が多用されるようになって久しい。リベラルから保守まで、独自の意味合いを持たせて使われている例も散見される。
 「いかなる意味でも他者を排除しない」。これは、長い歴史の中で社会の中の「社会」に追い込まれ、言われなき差別よって人としての尊厳を奪われた、全ての人たちにとっての課題である。同時に、この差別という社会的観念が現代資本主義社会の土台となっていることを見過ごすわけにはいかない。
 そうした観点から、90年代から世界の政治と経済の柱となった金融資本と新自由主義(市場原理主義とグローバリズム)の下の社会がどのように変化したのか、とりわけ多様性という美辞麗句とは裏腹に、労働力の商品としての価値の「多様性」によって、分断と孤立を強いられていった流れを見ておこう。

ワシントン
   ・コンセンサス

 この市場原理主義・新自由主義の政策パッケージは通称「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれる。国際通貨基金(IMF)や世界銀行などワシントンに本拠を置く機関の間に次のような政策的な合意(コンセンサス)が存在するというものだ。
 ①財政赤字の是正、②補助金カットなど財政支出の変更、③貿易の自由化・直接投資の受け入れ促進、④国営企業の民営化、⑤規制緩和・競争政策の導入、⑥労働市場の制度改革などである。
 当然のことだがこうした政策は現在も継続しており、それは資本の暴力としてその威力を発揮している。日本においては、「聖域なき構造改革」をかかげた小泉政権(01年~06年)の「骨太の方針」として社会のなかに定着していった。
 01年の「骨太の方針(第1弾)」では、①日本国債発行30兆円以下、②不良債権処理の抜本的解決、③郵政民営化の検討、④5年間で530万人の雇用創出、が打ち出された。
 第2弾(02年)では、「構造改革特別区域の導入」や「小さな政府の実現」「税制改革・地方行財政改革・社会保障制度改革」「2010年代初頭に国と地方を合わせた基礎的財政収支(プライマリーバランス)黒字化」などが打ち出された。
 第3弾(03年)では、「規制改革・構造改革特区」「混合診療の拡大」「医薬品販売の規制緩和」「公立学校の管理・運営の民間委託」「株式会社等による農地取得の拡充」「証券市場の構造改革」「三位一体改革(①国庫補助金負担の廃止・縮減、②地方交付税の縮小、③地方への税源移譲)」。
 第4弾(04年)では「郵政民営化法案提出(05年)」や「社会保障制度見直し開始」を打ちだし、第5弾(05年)で「公務員の総人件費削減・定員の純減目標」「市場化テスト(官民競争入札)の本格的導入」を、第6弾(06年)では「特別会計改革」「公益法人改革」を打ち出した。
 こうした一連の新自由主義改革を後押しした日本の資本家階級は90年代の半ば、年功序列・終身雇用・企業別組合を特徴とする「日本型雇用形態」からの転換をすでに決定していた。それは戦後の労使関係の大転換でもあった。

「舞浜会議」

 1994年2月25日、千葉県浦安市舞浜にあるホテルで財界人の会議が開かれた。経済同友会企業動向研究会の最終会合である。「舞浜会議」と呼ばれた。(注2)
 舞浜会議では今後の日本企業のあり方をめぐって議論された。終身雇用制を維持して雇用優先でいくのか、それとも米国流の株主優先に転換するのか。議論の様子は次のようなものだった。登場人物の肩書はいずれも当時のもの。

宮内義彦(オリックス社長)「企業は雇用に責任ない。経営者は株主を選べない。株主の利益を重視しなければ、グローバル競争の中では外国企業に買収される」
今井敬(新日本製鐵社長)
「製造業の競争では技術やノウハウが従業員に伝承されることが重要だ。米国型資本主義のように株主重視で短期的利益を追求すると、それが不可能になる」
椎名武雄(日本IBM会長)「終身雇用が会社人間をつくってきた。行き過ぎた会社中心社会は改めるべきだ」
牛尾治朗(ウシオ電機会長)「高齢社会では終身雇用や年功序列はもたない」

 牛尾はのちに「市場主義宣言」を出し、小泉内閣のブレーンとなる。そのとき彼は、「日本型経営は90年代で終った」と語った。
 雇用重視を唱えた今井の新日鐵も当時はリストラを迫られていた。バブル崩壊後の需要縮小とグローバル競争の中で、正社員の雇用を維持すれば固定費を柔軟に削減できない。それは企業と経営者の存続を危うくするものだった。
 宮内が言うように「株式会社の経営者は社員を選別することはできるが、株主を選り好みすることはできない」という立場に立てば、会議の結論は自ずと明らかだった。
 こうした議論を経て、財界は日本型経営からの転換へと大きく舵を切っていく。   (つづく)
(注2)朝日新聞「変転経済」取材班編『失われた〈20年〉』(岩波書店、2009年刊)