
祖国のためや革命のために、戦争や闘争に赴くときに煽(あお)られる感情は、「恥」と「名誉」です。「新しい戦前」において問われるのは、誰に対して「恥ずかしくないのか」ということです。先の戦争では日本軍や国家の「生きて辱めを受けず」を真に受けた人たちが、反戦派の人たちを「非国民」と罵りました。国家は、「ご近所さん」「同級生」「友人」を通して、私たちの「恥」という感情を占領しようとします。戦争に駆り立てるのは、けっして霞ヶ関や永田町の人たちではなくて、もっと身近に存在する人たちなのです。
それでは「恥」や「名誉」という感情を押し殺せばいいのか。誰もが「恥ずかしい」とか、「誇らしい」という感情を持ちます。そうした感情を押し殺すことを、フェミニストは「有害な男らしさ」と批判しています。男性学では、男は「怖い」とか「つらい」などの感情を押し殺し、「弱気を吐けない、吐いてはいけない」と思い込むのが「男らしさの呪縛」と言われます。
どんな感情を抱いても、それが罪にはならないし、罪だと思ってはいけない。感じたことは感じきればいい。私たちは感情を通して社会と繋(つな)がり、感情を通して社会を見るのですから。資本主義が続く限り、貧困は必ず生まれる。だから発想を逆転させ、「負け組」であることを「誉れ」とし、勝ち組であることを「恥」とする感性がなければ、反貧困・反資本主義を掲げることはできない。たしかに資本主義社会で「幸せに生きていこう」と思えば、他人を蹴り落とすことは避けられません。しかしそうだと諦めず、人を蹴り落とさずにいろいろな人と歩んでいくためには、「負け組のままで幸せになる」、誰が何と言おうとそうやっていくのだという決意が必要だと思います。
