坑底で座り込む女性たち=1967年7月

1963年11月9日、戦後最悪の労働災害と言われる三井三池炭鉱三川坑炭じん爆発事故があった。458人が死亡。839人が一酸化炭素(CO)中毒によって高次脳機能障害となり、60年後の現在も40人近くの患者が闘病生活を送る。11月10日、大阪市内で「原点はここにあった 高次脳機能障害と現代社会」の集会があり参加した。

非道な三井資本

第一部は「10・9 あの日を忘れない CO特別立法に向けた命がけの闘い」。三池炭鉱労組書記次長(当時)の立山寿幸さん(88)が講演した。事故で死亡した労働者への三井資本の仕打ちは非道そのもの。1000日分の賃金と災害協定の弔慰金10万円で済ませ、現在のような遺族年金制度もなかった。
また839人のCO中毒患者は、その後も意識が戻らず植物状態の人、知的障害、記憶障害、性格の変化で暴力的になる人など、脳細胞の破損箇所によって症状が違うものの、辛苦を強いられた。患者は外見上普通に見えたこともあり、会社側は「仮病」「なまけているだけ」と罵倒、責任逃れに終始した。高次脳機能障害への無理解もあったが、三井資本の息がかかった病院やその力を恐れた病院では、患者を強制退院させることもあった。
患者家族は家族会、遺族は遺族会を結成し、賃金補償、入院患者の送迎、労災補償の等級見直し、患者を定年まで解雇しないことなどを交渉した。食べるために働きに出た妻たちは、家に帰れば患者の介護、子どもの世話とその疲労は極限に達していた。そして炭じん爆発事故から3年後、国と三井資本はついに労災補償の打切りを宣言した。

命賭けた女たちの闘い

当時の労働災害法は身体障害を対象としており、脳障害は除外。また「労災による入院などで休職した場合、3年間で職場復帰できなければ解雇してもよい」とあった。三井の非道な仕打ちに家族会の怒りは頂点に。そして1967年7月、「新しい法律を作れ」「CO特別立法を制定せよ」と、不退転の決意で決起した。家族会の命を賭けた闘いは、社会党、総評、炭労の援助も得て、一挙に全国に広まっていった。
患者家族の女たちは上京して、労働省(当時)で座り込み、ハンストを行い、街頭や駅頭でチラシを配って訴えた。一方、現地の三池炭鉱では坑口から1600㍍、深さ350㍍の灼熱の坑底(正に事故現場)で、75人の女たちが6日間(144時間)の座込みを決行した。気温33・5度、湿度80%以上、天井から土砂が崩れ落ちてくる危険な場所だ。そこにビニールや毛布を敷き、お互いの身体をヒモで結びつけて座り込んだ。最初の3日間は水だけという闘いに怯む者は誰一人いなかった。一方、三池労組や主婦会約4000人は、坑口にピケを張って坑底の女たちを権力の手から守り抜いた。この命がけの闘いが特別立法制定の大きな力となった。
講師の立山さんは繰り返しこう語った。「労働運動史上、類例のないこの女たちの壮絶な闘い。この思いを共有してほしい。特別立法闘争を最初から最後まで担ったのは女たち。皆さん、この記憶を残してください。後世に伝えてください」と。
88歳になる男性が、60年間、これ程までに女性の闘いと存在に敬意を持ち続けてきた姿に胸が熱くなった。(つづく)