ダイバーシティが「多様性」を指すなら、その反対語は「画一性」である。「画一性ではなく、多様性でいこう」とみんなが声をあげているのなら、そこで否定されている「画一性」とは、何を指していたのかを再度確認すべきだろう。
 経済産業省はホームページで「多様な人材」とは、「性別、年齢、人種や国籍、障がいの有無、性的指向、宗教・信条、価値観などの多様性だけでなく、キャリアや経験、働き方などの多様性」も含むとしている。女性や高齢者、外国人を差別し排除してきた、これまでの日本社会のあり方では、急速な少子高齢化の進行に対応できないということだろう。官僚や政治家たちが抱いている、日本社会の近未来への恐怖を読み取ることができる。
 世界的な人材派遣企業アデコグループの日本法人はホームページで「ダイバーシティ」について次のように解説している。
 「…もともとは人権問題や雇用機会の均等などを説明する際に使われていました。現在では多様な人材を登用し活用することで、組織の生産性や競争力を高める経営戦略として認知されています。/企業がダイバーシティを推進することで、優秀な人材の確保やイノベーションの創出につながり、世界での競争力の獲得や業績向上、生産性向上などといったメリットが期待できると言われています」
 「ダイバーシティとは生産性向上運動のことだったのか!」と思われる方もおられるだろう。然り、資本家たちにとってはこれこそ「ダイバーシティ」の肝なのである。
それでは結局のところ、反差別を闘う運動は資本に包摂されてしまうのか。そうならないためには、原点に返って社会的包摂を共生社会へと転換させる視点を確立することが重要である。

類的存在と共生社会

 マルクスによれば、人間とは相互の生産共同体において、他人とともに共同生活を営む社会的存在である。このような存在を類的存在と呼ぶ。マルクス以前にもあった類的存在という思想は人間の共同生活の中核に愛を据えていたのに対して、マルクスは労働や生産が共同生活の中核をなすとしたのである。
 さて、首相官邸のホームページでは「共生社会」について次のように説明している。
 「社会には、さまざまな状況や状態にあったりする人々がいますが、『共生社会』」は、さまざまな人々が、すべて分け隔てのなく暮らしていくことのできる社会です。障害のある人もない人も、支える人と支えを受ける人に分かれることなくともに支え合い、さまざまな人々の能力が発揮されている活力ある社会です」と。
 また「障害者権利条約」の解説では、「さまざまな『ちがい』を理由にだめだといったりすることなく、『ちがいの中にこそ、その人らしさがあって、ちがうを大事にしよう』ということ」を謳った「世界のルール」とある。
 このような政府によるダイバーシティ(多様性)や共生社会の賛美には大きな問題がある。ここで言われている「ちがい」は自然に形成されたものではない。明らかに現代資本主義が人為的に作り出した「ちがい」である。しかも「ちがい」の基準は、「生産性が高いか、低いか」というところにある。

誰が排除しているのか

 「障害者基本法」における障害者の定義は「身体障害、知的障害、または精神障害があるため長期にわたり日常生活、または社会生活に相当な制限を受ける者」。この定義は曖昧である以上に、肝心なことが書かれていない。「社会生活に相当の制限」を加えているのは誰か、という点だ。
 このことを如実にあらわしているのが、2025年には800万人に達するといわれる、貧困単身高齢者への社会施策の欠如だ。彼らは、社会の「お荷物」としか見られていない。年金支給開始年齢の引き上げ、年金の削減、定年延長、社会保険料の負担増。こうした施策は、高齢者の生存を脅かしている。これこそ社会的排除と見るべきであろう。
 ここまで、排除から包摂に至る時代的な経過を追ってきたが、さらに検証すべき課題は多い。例えば「マルクスの労働価値説を、現代社会においても支持できるのか」という問題だ。この問題への挑戦は今後の論争を待ちたい。(おわり)