
(2014年4月19日)
2014年の夏、まだ海底のボーリングをしていた頃、カヌー隊に加わり阻止しに行った。辺野古の海に土砂投入がなされたときも、海上に居た。
米軍基地キャンプ・シュワーブは国道329号線を跨ぎ、海岸にまで達しているが、さらに海岸から50mほどは米軍に提供された海域となっている。政府は辺野古に新基地建設が決定されてから、臨時的制限区域と称し、さらにずーっと沖合に浮き輪(フロート)で柵を作り、抗議船やカヌーが入らないようにした。議会で審議して設定したのではなく、閣議決定で決めた。
私たちは、臨時的制限区域に最初は恐る恐る、のちには大胆にフロートを越えて作業船に向かって行った。すると周りにうろついていたゴムボート(GB)に乗った海保たちが、拘束しに来る。フロートを越える度、海上保安庁に拘束された。
素直に拘束されるのではなく、なぜ拘束するのかと抗議した。彼らは無言だったり、私たちの安全のためとか違法だからと言ったりした。私は違法なら逮捕せよと迫ったこともあったが、逮捕はできなかった。
たたかいの初期は抗議船がひっくり返され、カヌーの仲間は怪我をさせられた。海水に顔を押し込まれた女性もいて、その乱暴なやり方を裁判に訴えた。なかでも「海保太郎」と名乗った隊員のことで中城海上保安部へ抗議に行った。そのためなのか、海保が隊員を入れ替えたのか、乱暴な隊員は少なくなっていた。
その後、またおかしくなった。私が陸でのたたかいに移った後の21年4月15日、工事護岸に向かって漕ぎ出したカヌー9艇の内の千葉和夫さんのカヌーに、海保の高速ボートが猛スピードでぶつかってきた。千葉さんは胸部打撲、頭部挫傷、頚椎損傷を負った。海保側からなんらの謝罪もないため7月に提訴した。「軽微な接触があった」との弁明であった。ぶつけられた瞬間の映像がある。「よくぞここまでウソを言い張るものだ」と怒りを覚える。
12月に12回目の裁判が行われた。いつものように書面のやりとり。まだ証人尋問にたどり着いていない。このような遅々たる裁判闘争。千葉さんに再び海保の攻撃が行われる。22年11月、フロートの外で写真を撮っていた千葉さんめがけて、GBが突っ込んできた。避けきれずぶつけられ頚椎捻挫の負傷。まかり間違えば死ぬ。那覇地検に告訴状を出したが、不起訴処分にされた。検察審査会に提訴している。まだ結論が出ていない。
14年、15年の運動の集中と高まりのときは、決してこのようなことは許さなかったはずだ。あの頃は、拘束した私たちを解放しようと海保が辺野古の浜に近づくと、浜で市民たちが抗議。結局、沖で私たちを解放していた。
山城博治さんは、「一人でも拘束者がでたら、たたかいを一時ストップしてでも仲間を取り返そう」と言った。今も、その気持ちだが、沖縄本島だけでも安和、塩川、遺骨混じりの土砂、中城の弾薬庫基地化とたたかいの場が広がり、県民だけではもう手一杯。抗議の声が小さいと海保の暴力は続く。12月8日も女性二人に怪我を負わせた。
辺野古ゲート前で故高垣さんが、よく歌っていたのを思い出した。
♪いかなる弾圧が 度重なるとも われらの友情は 永遠に変わらず 海や森 空も澄めば わが心は やんばるの地に♪
(「心さわぐ青春の歌」の辺野古版)
(富樫 守/12月17日)
