林立するタワーマンション=大阪市西区

ギャンブルのイメージ

日本人がギャンブルに抱いているイメージは、胴元と自分とのお金のやり取りですが、カジノは客同士に賭けさせて、そのあがりで儲けるものです。ルール通りに勝負をしてくれれば、手数料が自動的に胴元に転がり込む仕掛けになっています。カジノの専門用語でGGR(Gross Gaming Revenue)といいます。粗利益の粗利ですね。
夢洲カジノでは、賭けるお金が約5兆円で4933億円の粗利があると業者は想定しています。スロットマシンの場合、粗利は8・0%から8・8%に設定されています。
1セントのスロットマシンでは300通り賭けないと当たりが出ない仕組みになっているそうで、結局1回の勝負に3ドル払うことになっています。6400台のマシンがならぶ夢洲カジノだと、30%の稼働率では1分間で3600円賭けさせる計算です。これはラスベガスのカジノで使うお金と同じになります。
賭博に技能は関係ありません。勝つか負けるかは偶然です。まったくの素人でも勝つことがあります。すると「私、天才ちゃうの? 私は選ばれた人や」と思ってしまうのです。それで、はまってしまったと依存症の方はおっしゃいます。

―スポーツ賭博もやるのでしょうか
今は、カジノでの賭博の種類は法律で決められているので、スポーツ賭博はできないことになっていますが、事業期間が30年ありますので、いずれ必ずやるでしょうね。

革新自治体の「教訓」

維新のやり方はかつての革新自治体の教訓を踏まえているのではないでしょうか。革新自治体は地域から国政を変えるという路線を持っていましたが、それができなかったのは、地域政党を作らなかったからではないかと。そのため中央への「陳情、陳情」という形になって、自分たちで法律を作ろうというところまでいかなかった。
かつて革新自治体の首長を支持した動きと、維新を支持する動きの共通性を掘りおこさなければいけないと思っています。維新は、革新自治体の弱点をきちんと踏まえた上で、地域政党を作り、大都市改革を打ち出しているのでは、と思ってしまいます。
ただ維新は権力の側に立って地域の再編を進めようとしていますから、その点ですごく合理的なのです。つまり、大阪維新の会は独自に政策を考える必要が全くない。政策づくりは中央官庁の連中が全部やってくれるので、その政策が大阪でウケる方法だけを考えればいい。

高校廃校でタワマンに

それがピタッとはまったのが「教育」です。少子高齢化の中で、子どもたちに対する手厚い国の予算措置があるため、お金の問題を考えずに済む。
かつての大阪の高等学校の生徒数は公立7、私立3の割合でしたが、私立への助成金によって6対4くらいまで変わってきました。私立も公立も授業料の水準が同じなら、私立に合格しているのにわざわざ公立に行く生徒が減ります。そうして生み出された定員割れの公立校を廃校にします。
大阪市西区にあった大阪市立西高校(94年に西商業高校が改称)が廃校になったとき、西高の土地を売るよりも、同じ西区内にある堀江小学校の土地の方が約2倍で売れることが分かった。しかし小学校を高校跡地に移転すると通学圏の問題が生じる。それならと、堀江中学校を高校跡地に移転させました。そして中学校の跡地に小学校を移転させ、その小学校の跡地にタワーマンションを建てたのです。
こうやって、「教育」を、建設・不動産業を元気にするために使ったのです。プライバタイゼーション(「私」化)の中で生きてきた人たちは、「これが賢い政策だ」ともてはやします。

子どもにとっての教育

「そんな理屈はおかしいでしょ」と言うには、子どもの教育のあるべき姿を自分の中に持っていなければなりません。ところが小中高の先生は実践の専門家であっても、理論の専門家ではありません。子どもの認知システム、子どもの理解、子どもの発達を考えようとすると、大学院で専門教育を受けなければならない。大卒の先生たちはそういうことを勉強していません。

―現在の教育政策は子どもたちのための教育内容についてはお構いなしだと
それが、時代にマッチしているのです。大多数の人たちにとっては、子どもが素直に育ってほしい、健康であればいい、いじめられても人をいじめるな、というような話です。「この子に読み書きの能力をきちんと身に付けさせるためには何をすればいいのか」という話題にはなりません。
それぞれ個性が違う子どもたちが、なぜ決められた時間に、決められた場所に集められて、決められたことをやらなければならないのか。その問題について、大人たちは全然答えていません。答を持っていないのです。

日本語を教える

いま私が夢中になっているのは、学生たちにどうやって読み書きを教えるかということです。日本語の言語操作ですね。

―コミュニケーションが取れなくなっている
そうです。今の学生たちは、単語のレベルでコミュニケーションを考えています。文の構造が理解できない。格助詞と接続詞が使えない。書き言葉によるコミュニケーション技術が破壊されているので、「公と私の垣根がなくなっている」ことすら理解できない。
「公」、すなわちパブリックとは住民の中の共同体、コミュニティにおける水平関係です。ところが日本にはパブリックという概念がないので、「公」が「お上」のことになってしまい、権力関係、上下関係として公私の関係がイメージされてしまう。だからフラット(水平)な関係はすべて(パブリックではなく)プライベートな関係、「私」的な関係になってしまうのです。
自分のやりたいことや自分の望み、自分とは何かがハッキリしていないと、それを妨げたり、自分の意に沿わない命令を強制したりする権力関係を意識することができません。いつまでたっても公と私の関係が自分の中で形成されないのです。

―最後に、夢洲カジノで一番に訴えたいことは何でしょうか
カジノには社会的弊害があります。どのような社会的弊害があるかというと、連帯が欠如し、自己責任が大手を振ってまかり通ってしまう。今一番言いたいのは、「連帯を壊すな!」ですね。そして「壊せ! 自己責任」(おわり)