三井三池争議で起ち上がった女性たち(1960年4月20日に撮影)

三池闘争を担った三池炭鉱労働組合は、日本労働運動の歴史の中で最も戦闘的な組合として、高齢者なら誰でも脳裏に残っているだろう。
「みんな仲間だ 炭掘る仲間 闘い進めた俺たちの 闇をつらぬく歌声が おい聞こえたぞ地底から」 この労働歌は単に闘争の歌ではなく地底での過酷な労働の叫びだ。
明治以降、「富国強兵・殖産興業」の下に石炭産業が国策として推し進められた。当初は主に奄美大島や与論島など離島の人びと、囚人、在日中国・朝鮮人が劣悪な環境下で働かされた。頻発する落盤事故や爆発災害。人権などの概念もなかった時代に、被差別人民が坑内の事故で障害を負った場合に医療と生活の保障があったとは思えない。野に捨てられ、のたれ死にしかなかったのではないか。後年、三池CO患者の訴訟でも、辛うじて勝利することに30年間を費やしたことを見ても、そうとしか思えない。
1889年(明治22年)に三池炭鉱は国から三井資本に払い下げられた。日清・日露・第一次、第二次世界大戦と、石炭産業は戦争政策の原動力となった。朝鮮戦争では、「特需」の要として、朝鮮の人びとの犠牲の上に敗戦後の日本経済復興をけん引した。
しかし一方では、炭鉱労働者は相変わらず劣悪かつ低賃金で酷使され続けた。1946年、敗戦直後に結成された三池労組はこれまでの「労使協調路線」から脱却して、「抵抗なくして安全なし」「安全なくして労働なし」をスローガンに敢然と決起した。1952年の63日間ストライキ、53年の113日間闘争と、その不退転の戦闘性は国と三井資本を驚がくせしめた。しかし時代は急速に石炭から石油へと移り変わっていった。1959年、三井資本は1000名規模の人員削減―解雇を通告した。さらに労組をたたきつぶそうと、その対象は組合活動家に集中した。そして1960年、313日間におよぶストライキに突入した。
これらの闘いは全国的な支援を受けて「総資本 対総労働」と称された。その後、会社側による闘争圧殺のための第二組合の策動(ストライキ中の労働者に給料が出る訳もなく、食う物もない貧困にたたき込まれた労働者が断腸の思いで二組に転じた人もいただろう)。さらに会社に雇われ、警察に守られた暴力団が第一組合員でピケ中の久保清さんを刺殺。
怒りに燃えた全国の総評傘下労働者が集結した10万人集会。しかし労働者の疲弊は極限に達していた。ついに1960年12月、総評や炭労の屈服的指導の下、三池労組は中央労働委員会のあっ旋案を受諾せざるを得なかった。痛苦の敗北である。勝利した資本は一斉にコストを削減し、熟練工の第一組合員を追い出し、無慈悲な合理化を矢継ぎ早に断行した。それにより事故での死者が次々と増加し、3年後の戦後最悪の炭じん爆発事故につながっていったのである。労働者たちはどれだけ無念だったか。国と三井資本の犯罪であった。
1967年7月、「一酸化炭素中毒に関する特別措置法」が可決。73年5月、遺族161名、CO中毒患者259名、計420名の原告団が福岡地裁に損害賠償の訴訟(マンモス訴訟)を行った。途中で一部の和解もありつつも93年3月に勝利判決。97年三井三池炭鉱閉山。2004年5月、厚労大臣が「最期まで国が責任をもちます」と答弁。05年4月、三池労組解散。幾多の紆余曲折(うよきょくせつ)があったが三池闘争は労働者の階級的魂の爆発だった。確(しか)と記憶し、自らの闘う糧にしたい。

三池闘争の魂を胸に

新自由主義の下で30年たつが、労働者や女性の未来は正直言って見えづらい。女性の自由と自立を求めて闘ってきたつもりだが、多くの女性と若者の4割が非正規雇用という攻撃に首根っこをつかまれて貧困にあえいでいるのが現実である。そもそも身を削って働いているのに、「正規ではない」とはどういうことだ! 女性労働者が一生働き続けても生活保護以下の年金しかないということを我が身で経験した。
一部のエリートは別にして、女性は自らの力では人生を築くことはできず、老後も他に(男性に)依存しなければならないのか。あれだけ渇望した男性支配社会からの決別と自由と自立は夢で終わったのか。焦燥感に駆られたときこそ、三池の闘いを想起したい。CO中毒という不治の病に冒された体で、がんばり抜いた患者と家族に学ぼう!
「一億総中流(意識)」はこっけいなまやかしだった。資本主義に「平和で豊かな発展」などないことが、誰の目にも明らかになっている。帝国主義者と死の商人が跋扈(ばっこ)し、世界中に戦争と飢餓をばらまいている今こそ、女性の解放をたぐり寄せうる待ち望んだ時代と思いたい。