長崎被爆二世集団訴訟の控訴審第1回口頭弁論にのぞむ原告ら=2023年6月29日、福岡高裁

戦後79年苦難の中、生き抜くために闘い続けてきた被爆者運動だが、被爆者の多くが死去あるいは年老いて、その闘いは「当事者運動」としては被爆二世たちが継承していかなければならない。しかし被爆二世はその存在自体が否定されたに等しく、援護を求める運動も市民権が得られていないように思える。全国被爆二世団体連絡協議会が1988年に結成され、援護法を求めて37万筆の署名をもって厚労省交渉を重ねてきた。しかし国は冷たく突き放すだけ。2016年以降は裁判闘争にうって出たが、2022年12月に長崎地裁で不当判決、2023年2月に広島地裁でも棄却。国会でも司法の場でも門前払いに近い。不当判決につきものの1分足らずの判決言渡しで終結だった。マスコミ報道もほとんど無視に近い。この裁判の争点は「放射線被害の遺伝的影響の評価」にあったが国は一切認めず、裁判所は「原爆投下時に実在しない存在、つまり直接被ばくしていない二世は援護の対象ではなく、除外」とした。

裁判所こそ
    科学的でない

原告側の証人となった遺伝学の医師は、「裁判所こそ科学的でない。体細胞と生殖細胞の違いを理解していない。直接被爆した生殖細胞によって生まれてきたのが被爆二世なのだ」と不当判決を批判した。
イラク戦争中、劣化ウラン弾を使用した米兵が米国に帰還後に生まれた子どもたちに先天的異常が多発したということは、この医師が語るように放射能の影響で遺伝子が変異したことの証左ではないのか。
被爆二世たちは、いつ親と同じような病気にかかるのではと不安を抱えて人生を歩まざるをえず、実際に白血病やがんにかかって苦しんだり、死去したりしている。このような二世の存在を国や司法は見ようとはしない。私は父親が長崎で被爆したことを小さな頃から知っていたが、そのことを「他人に言うな」と父親に口止めされていた。なぜ父は、私に「隠せ」と厳命したのか。それは日本人の多くが「原爆の放射能は生まれてくる子どもに影響する」と疑っていたからだ。父は私や弟を世間の差別から守ろうとしていたのだ。結婚、出産 … と人生のあらゆる場面で被爆者と二世たちは差別を受け、恐怖と闘いながら生きていかざるをえなかった。

命と引き換えに

被爆二世の原告は控訴審で「私たち被爆二世は、戦後生まれで、戦争を直接体験してはいません。にもかかわらず、原爆投下による核被害者、『被爆者』の子供として、自らの命と引き換えに過去の戦争責任をとり続けています」と訴えた(注)。この訴えに国と裁判所は真摯に向きあうべきだ。
私が「被爆二世」という概念をもって自己を認識したのは成人してからである。長崎の被爆二世の青年が、すべての内臓が逆転して生まれ(例えば心臓も右にある)、その医療費支援の運動を知ったときである。そして弟の白血病発病。父は泣いていた。戦争で使われるすべての武器に反対であるが、中でもまだ生まれていなかった次世代に影響する武器は最も非人道的で許し難い。
1975年のサイゴン陥落を全世界の良心的な人びとは喜んだが、たとえ戦争に勝利しようと、あれから49年たつがいま未だに枯葉剤の障がい児が生まれ続けている。数年前にベトナム・ダナンを訪れたが、実際に被害者に出会って衝撃を受けた。
被爆二世の闘いは援護法制定にとどまらず、福島の被ばく者たちの闘いとも連帯して、核と戦争を糾弾し続けるものに発展させたい。「核抑止力」論は壮大なる虚偽である。   (想田ひろこ)

(注)昨年6月29日の長崎における被爆二世集団訴訟の控訴審第1回口頭弁論(福岡高裁)での丸尾育朗さんの意見陳述より。全国被爆二世団体連絡協議会のホームページより転載(写真も)。