
戦争あかん! ロックアクションで、「明治維新の正体パート4」ですっかりおなじみになった関良基(よしき)さん(拓殖大教授)が講演。テーマは「ありえたかもしれない 江戸の憲法ともうひとつの近代史」。なかでも一番面白かったのは渋沢栄一と山内容堂(ようどう)、加藤弘之の話だ。
渋沢栄一の証言
戦後の歴史学では「イギリス、フランスの外交官の指導によって議会制度が次第に新しい政治理念として浮かび上がってきた」(遠山茂樹著『明治維新』)という見解が主流だ。ところが、渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』全8巻(平凡社東洋文庫1917~18年)を編纂、その中で横井小楠(しょうなん、江戸末期の熊本藩で藩政改革に努めるも失敗、招かれて福井藩の藩政を指導)や赤松小三郎(幕末、現在の長野県上田市出身の洋学者・議会政治の提唱者)らの議会政治の思想を紹介、「気運の然らしむる所、欧州思想の模倣とのみは言う能はざるなり」と記している。要は「欧州のまねじゃないよ」ということである。
大正時代には、薩長中心の明治維新史とは異なる歴史研究の流れがあった。そこでは、徳川政権下で西洋法学が研究されており、議会の開設も提案され、近代化にむけて着実に歩んでいたことが明らかにされていた。それが戦後歴史学に継承されることはなかった。
山内容堂の議会構想
山内容堂は土佐藩主として政権返上(大政奉還※注)を建白、庶民も含めた議会政治を本気でやろうとしていた。この建白書には赤松小三郎の意見が反映されている。
山内容堂は明治維新後、政体律令取調官に就任。徳川政権の俊英であり議会政治論者である神田孝平、津田真道(まさみち)、加藤弘之を局員に迎えいれた。加藤弘之はその前年、慶応4年(明治元年、1868年)に『立憲政体略』という本を著している。その中で、「立憲政体」とは「公明正大確然不抜の国権を制立し、民と政を共にし、以て真の治要を求むる所の政体をいふなり」と説明している。現在も使われている立憲、憲法、立法権、行政権、歳入、歳出、代議士などの法律・政治用語は加藤が考えたもの。
現行憲法に匹敵
加藤が掲げた「国憲」には最小限の基本的人権として、1、「生活の権利」―生存権。これは西洋の憲法にはない。2、「自身自主の権利」―正当な理由なしに逮捕・拘禁されない。3、「行事自在の権利」―職業選択の自由。4、「結社及び会合の権利」―集会・結社の自由。5、「思、言、書、自在の権利」―思想・言論・出版・表現の自由。6、「信法自在の権利」―信教の自由。7、「万民同一の権利」―法の下の平等。8、「各民所有の物を自在に処置する権利」―財産権があり、現行憲法と比較しても遜色がない。
しかし、明治維新によって天皇を神格化する家父長権的な国家が生まれてしまった。女性の権利は江戸時代より後退し、国内では抑圧的、対アジアでは侵略主義的な「国体」を生み出した。
もし明治維新がなくて、江戸の憲法構想が実現していたら、日本はもっとまともな民主的な政治が行われる国になっていたかもしれない。(池内潤子)
※注 大政奉還、幕府、朝廷という言葉は、人びとを洗脳する言葉だと関さんは言う。徳川家康は軍事力で全国を統一して政権を取ったのであって、一時的に政権を天皇から預かったわけではない。しかし、こういう言葉を使ううちに朝廷の方が上位にあると思わされてしまう。江戸時代の人は、幕府は公議、朝廷は禁裏と呼んでいた。
