空襲体験を語る矢野蓉子さん=6月8日、明石市

79年前の明石空襲を考える「あかし戦跡めぐり」に約60人が参加した(6月8日、ピースネット明石)。初めに、1945年1月19日の「最初の明石空襲」を体験した矢野蓉子さん(84)から話を聞く。矢野さんは市内中心部の大観小学校近くで空襲を受けた。今回が初参加。「戦争のことを今こそ伝えておかなければ」と。
牧野満徳さん(ぶらり子午線ボランティアガイド)から、明石駅東の「北向き地蔵」の由来を聞く。空襲と戦後の混乱で犠牲になった子どもたちを慰霊するその地蔵尊は、地元の人たちが平和を願って建立した。
同じ19日、川崎航空機明石工場も空襲を受けた。現在は川崎重工業・明石工場。その南門すぐ東の「身代わり地蔵」には爆死した従業員や動員学徒が祀られている。その脇に小さな地蔵尊が2体置かれていた。蒸し暑い日差しの中を歩く。川崎重工の正門脇の川崎神社には、工場への空襲で亡くなった263人の慰霊碑が1988年に建てられた。毎年1月に慰霊祭が行われている。
川崎航空機工場は、国策で尋常高等小学校を立ち退かせて建設された。旧陸軍の戦闘機「飛燕」を量産した重要軍需工場だ。勤労報国隊、学徒報国隊、女子挺身隊など、4500人の男女学生が動員され、一時は3万8000人を数えたという。
途中、ガイドの牧野さんから自身の戦争体験を聞く。「ある日、艦載機の鋭い音、機銃掃射の激しい音とともに土煙が舞い上がった。姉と私はとっさに側溝に入った。翌日、近くの人丸小学校に行くと、道路はボコボコ穴が開き、廊下のガラスが破れ、防空壕の蓋が飛んでいた。付近は火が燻(くすぶり)り、大人たちは不発弾があると言っていた」。
市内の高校新聞部の生徒4人が顧問の先生と参加し、若い家族の参加もあった。いまも世界に戦争が続く。戦争の被害と加害、過去を忘れず継承し平和を築くことへの思いを痛感した。 (江戸)