半藤一利・湯川豊の共著『原爆の落ちた日』。原爆の研究、開発、製造過程、使用の流れ、アメリカ、ドイツ、日本の動きを詳細に検証する。原爆投下後の広島の惨状についても、被爆者の手記を引用しながら丹念に述べられている。
アメリカがどうして原爆開発に成功したのか。ニューディール政策によって建設されたテネシー川流域の多くの水力発電所から得られた豊富な電力があった。原爆製造には天然ウランに0・7%しか存在しないウラン235を抽出しなければならない(天然ウランは99・3%がウラン238)。それには莫大な電力を必要とする。
日本も、陸軍が中心になり「二号研究」と呼ばれる原爆開発を進めていた(海軍は1942年頃からB研究)。しかし、電力は不足し、そもそも日本では原料のウラン鉱石が採れなかった。
一方、核物理学が世界的にも進んでいたドイツはヒットラーのユダヤ嫌いが「災い」した。ユダヤ人研究者による原爆研究に注目しなかったらしい。ナチスの迫害を逃れ、多くの優秀なユダヤ人物理学者は次々にアメリカに渡った。

マンハッタン計画

かくしてアメリカは、「ドイツよりも先に原爆をつくる」という強烈な意思の下に、42年8月から「マンハッタン計画」をスタート。指揮官はグローヴス准将。計画は徹底的に秘密にされた。総額20億ドルの予算と、合計50万人の研究者、労働者が働き原爆開発は進められた。ニューメキシコ州のロスアラモス研究所は、「ノーベル賞学者の強制収容所」と言われたほど厳重な監視下に置かれ、「戦争が終わっても半年間は研究所を離れない」と誓約させられた。
マンハッタン計画がスタートした約3年後の45年7月16日、午前5時30分、原爆の爆発実験は成功した。この時点でアメリカはウラン型原爆とプルトニウム型原爆を所有していたが、実験はプルトニウム型原爆だった。破壊力はTNT火薬2万トンに相当した。
爆発実験が成功した時には、すでにドイツは無条件降伏。日本は、本土空襲と沖縄戦により壊滅状態。降伏に向け、原爆を使用しなければならない状況ではなかった。しかし、ルーズベルトとチャーチルは、44年9月18日時点で、すでに日本への原爆投下の覚書を交換していた。

「エノラ・ゲイ」

広島に原爆を投下したのがB29「エノラ・ゲイ」号であることは、よく知られている。テニアンの混成509爆撃隊14機のうちの1機。44年12月に、第20空軍に原爆爆撃隊として509爆撃隊を編成、ウェンドバー基地で爆撃投下と、爆発による衝撃波回避の訓練を積み重ねていた。
アメリカでは日本に対して、凄まじい破壊力を持った原爆を無警告で投下するか、警告して投下するかなどの議論があった。「日本の戦争指導者をアメリカに呼び」原爆の威力を見せつけるべきだという意見もあったらしい。
日本政府と軍部が「戦争継続か和平工作をどうするか」と定まらない議論をしているとき、45年7月24日、グローヴス准将が正式に「合衆国陸軍戦略空軍総司令官カール・スパーツ将軍」宛に原爆投下命令書を作成した。①第20空軍第509爆撃隊は、45年8月3日ころ以降、天候が目視爆撃を許す限り、なるべく速やかに、最初の特殊爆弾を次の目標の一つに投下せよ。②(目標)広島、小倉、新潟および長崎(当初は京都も含まれていた)。  (こじまみちお)