ここで時間を少し戻してみる。1945年1月1日の広島は珍しく雪が降り、町が一面に白い雪で被われたそうだ。この現象に、広島に住む人びとの中には不吉な予感を覚えた人もいたという。広島は西日本の中核都市であるにもかかわらず、空襲による被害もなく食糧事情も悪くなかった。空襲で被災し、他都市から流入した人びとも含めて、この年の8月の人口はおよそ40万人だったと推定されている。

原爆投下

45年8月2日、在グアム第20空軍司令部作戦命令書13号が、第509爆撃隊に下された。「攻撃日8月6日」「攻撃目標 広島市中心部と工業地域」「予備目標 小倉」。
8月6日午前2時45分(テニアン時間)に、B29「エノラ・ゲイ」は、気象観測機と記録機を従え、テニアン島のA滑走路から離陸した。8月6日は月曜日だった。人びとは職場に出勤し始め、学徒動員の中学生たちが建物疎開の作業を始めた8時15分、原子爆弾は炸裂した。広島市のほぼ中央、上空600メートル、爆薬のウランの量は800グラムだった。
原爆の炸裂とともに黒い雲がわき上がり、黒い雨を降らせた。被爆直後は、夏にもかかわらず非常に寒かったという証言もある。一瞬に何十万人の人びとが死に、重い火傷、怪我を負った。「時間が止まり、世界が変わってしまった」のだ。『原爆の落ちた日』には、さまざまな被爆体験が載っている。そのうちの二つを紹介する。

米兵と朝鮮王族の死

爆心地だった相生橋の東詰めに、若いアメリカ兵(捕虜になった米兵は23人ほどいたらしい)が横たわっていた。その、死んだアメリカ兵に向かって老婆が石を投げつけていたという。
朝鮮の李朝王族である李グウ公が、第2総軍司令部に勤務していた。その日も馬で通勤していた。植民地とした朝鮮に、日本は「日韓の一体化」を腐心し、天皇家と李王朝の間を婚姻関係でつないでいた。
李グウ公は、福屋デパートの近くで被爆、重傷を負った。形式上は「日本の皇族」であり、日本軍は必死に公の行方を探し似島(にのしま)の海軍病院に運んだが、翌日の午前4時に死去した。李グウ公のお付き武官であった吉成弘中佐は、責任を感じ拳銃自殺を遂げたという。なお、植民地の故に、朝鮮から日本に来ざるを得なかった朝鮮人数万人も広島で被爆死した。
原爆投下を終えたエノラ・ゲイは、テニアン島の飛行場に午後2時58分(現地時間)着陸した。機長ティベッツ大佐は栄誉十字章、ほかの搭乗員は銀星章を受けた。その日の夕方から盛大な祝賀パーティーが開かれたという。
以前、講談社現代新書だったか、8月6日の夜、阿鼻叫喚の地獄のような広島をよそに、皇居では冷たい紅茶を飲んでいたと書いてあった。その落差。『原爆の落ちた日』を読んで知った。壊滅的な状態にあったにもかかわらず、救援の動きが早かったこと。医薬品や包帯もないなか、懸命に救援活動が行われていたのである。アメリカは、結局「無警告」で原爆を投下した。日本の軍部は、なおかつ本土決戦を叫んでいたのである。それから3日後の9日に、長崎にプルトニウム型原爆が投下された。
2016年5月27日、アメリカ大統領オバマが広島に来た。あの時、「フットボール」と呼ばれる原爆発射装置を入れた黒いカバンが、オバマの数メートル離れたところにあったのが忘れられない。
文庫本で645ページに及ぶ『原爆の落ちた日』を語るには力不足。特に被害の実相については、まったく書けなかった。(こじま・みちお)