日本の植民地支配の象徴、旧台湾総督府、現在は中華民国の総統府

1972年の日中共同声明で、日本政府は「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部」という中国側の主張を「十分理解し、尊重する」という立場を表明した。台湾は「中国の国内問題」であることを認めたのだから、日本が「台湾有事=日本有事」のごとく騒ぎ立てることは中国への内政干渉に当たる。これが台湾有事論にたいする良心的な意見である。私もそう考えてきた。
「果たしてそれでよいのか」。台湾近現代史の研究者である駒込武さん(京都大学大学院教授)は、こうしたとらえ方に根本的な疑義を唱える。その駒込さんの講演会が大阪市内で開かれた(7月13日、主催:南京の記憶をつなぐ2024)。

台湾の「棄地遺民」

1895年4月17日、日清戦争で敗れた清国は下関条約で遼東半島、澎湖島とともに台湾を「割譲」した。戦争中ほとんど戦闘が行われなかった台湾が、ある日突然、日本に「割譲」されたのである。この報を受けた台湾民衆は5月23日、「台湾民主国」の独立を宣言し、欧米諸国の領事に通知した。すると清国全権の李鴻章(リーホンチャン)は「台湾の人民は独立を宣言したるに付き、清国政府は該人民に対しては最早管轄権を有さざる」という電文を伊藤博文宛に送った。清国による台湾の「棄地遺民」である。台湾に侵攻した日本軍は、住民が組織した義勇軍の頑強な抵抗を武力で鎮圧し、以降、1945年まで日本は台湾を植民地支配した。

白色テロの時代

日本の敗戦(ポツダム宣言を受諾)によって、台湾は蒋介石政府(中華民国)の支配下におかれた。そこでは日本統治時代と同様に、台湾住民の政治参加は制限された。そして極度のインフレ、食糧難、国軍兵士の横暴と性暴力が住民に襲いかかった。47年2月28日、台湾人のデモにたいして憲兵が機銃掃射を加え、数十人の死傷者が出た。これを機に各地で武装蜂起が起こる。当局は戒厳令を布告。暴動に関与したとして知識人を中心に2万人近くを処刑した。
49年5月、再び台湾に戒厳令が宣告され、台湾独立運動関係者や共産党関係者と見なされた者が大量に逮捕・投獄され、処刑された。台湾全体が「監獄島」となり、戒厳令が解除される87年まで、「白色テロの時代」が続いた。一方、日本は52年、サンフランシスコ講和条約と同時に中華平和条約を締結。蒋介石は対日賠償を放棄し、台湾植民地支配の責任を不問にした。

「台湾処分」

その30年後の日中共同声明で日本は、中華人民共和国の対日賠償請求の放棄と引き換えに、「台湾は中国の一部」という主張を認めた。日中共同声明は「日本の国益のために台湾を中国への賠償物にしようという」ものであり、正に「台湾処分」だった。
「日本政府は、東西冷戦構造に巧みにつけいる事により、中国大陸における戦争責任に向きあうことも、台湾・沖縄における植民地支配責任に向きあうことも免れた」と駒込さんは指弾する。
72年当時、台湾に真摯に向きあっていたのは、宮古島出身の川満信一だった。彼は「日本がもっとも民族的原罪として対象化しなければならないはずの台湾民衆に対しては、無視、無関心に扱われてきたように思う」(「沖縄における中国認識」)と書き残している。なぜ台湾民衆にたいして「無視、無関心」でいられるのか。それは「近代史の過程で、植民者としての体験しか持ち得てこなかった日本(本土)国民の無意識の感性」(同前)なのだ。
「日本本土」の住民がなすべきことを、駒込さんは次のように述べた。「1874年の台湾出兵以来の賠償責任を果たし、歴史の調査と真相究明に取り組み、被害者(遺族)に謝罪・補償を行い、責任者を明確化する。その過程で、『日本本土』の住民のなかに伏流水のように流れ続けている無意識の大国主義、植民地主義者の心性を克服していかなければならない」と。それは私自身の課題である。(香月泰)