
五輪の性別検査
朝日新聞の「天声人語」(7月21日付)で、米国で発売されたマイケル・ウォーターズ著『もうひとりのオリンピアン』が紹介された。スポーツとジェンダーをめぐる歴史をテーマとした書である。
国際オリンピック委員会(IOC)の女性選手の性別判定は、まずは外見に始まり、次に染色体検査、さらにテストステロン(男性ホルモン)計測へと移り変わってきたが、著者はそのような「男女の線引き」そのものを批判する。男女の二元論的線引きは、トランスジェンダーなどをスポーツから締め出す行為であると。今、IOCによる性別判定が拡大される傾向にある。生まれつきテストステロンの値が高い女子選手にも制約をかけるなどがあるなかで、今回のパリ五輪でも出場を断念した選手がいる。
どんな方法や基準ならば公平性が保たれるのかと課題は残るが、性の多様性を重視する社会の流れの中、スポーツ界の二元論はもはや限界ではないかと、朝日は社説(7月26日付)でも論じた。
グラデーション
先日、日本におけるジェンダー論の先駆者である伊藤公雄さん(京都大学名誉教授)の連続講座に参加した。まずは総論的な話だったが、最初に伊藤さんが語ったことが印象に残った。
「生物学的に生命体をオス・メスの二つに分類するのは難しい。染色体レベルでも、X、XYの一般的な2種だけでなく、インターセックス(性分化疾患)の人もいる。トランスジェンダーについては最近は話題になることが多いが、性関係においても異性愛、同性愛、両性愛と多様である。Xジェンダー(男でも女でもない性自認)やアセクシャル(性的な関心を全くもたない)の人たちもいる。つまり多様な性を男女二元論で振り分けることはできない。男と女の性差はグラデーションで捉えるべきなのだ。
連続性と多様性
健常者と障がい者の二元論的線引きには差別性も感じて、かねてから抵抗があった。人間は皆、精神も肉体もどこかが病み、それが進行して老化し、やがて死にいたる。小学校の頃、毎年行われていた健康診断では、身長・体重の測定に加えて色覚検査があった。私の友人は毎年、「色覚異常」と診断されて傷ついていた。「色盲」「色弱」と陰湿ないじめにあっていた。私は後年、「色覚は生来のものであり成長過程で変化することがないのに、なぜ毎年検査する必要があるのか」と腹が立って仕方がなかった。ところが最近の研究では、人口の4割(!)に軽微な色覚異常があることがわかっている。色覚もまた正常・異常で線引きできるものではなく、スペクトラム(連続体)なのである。
発達障害
「発達障害」という用語は1960年代から70年代にかけて日本に輸入されたが、世間の注目を集めるようになったのは90年代に入ってからである。代表的な症例としては自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)、学習障害(LD)などがある。基本的に生まれつきの特性である。
LDは、知的発達には遅れはないが、読む・書く・話す・計算する・推論するなどの能力のうちの一つないし複数で困難を示している状態をさす。
LDの著名人は多い。例えば、ニトリホールディングス会長の似鳥昭雄氏は、小学校時代は「落ちこぼれ」で、4年生まで自分の名前を漢字で書けなかったと自伝で明かしている。発明王のエジソンも小学校を3カ月で退学になった「落ちこぼれ」だった。5歳になるまで言葉を発して他人と会話することができなかったアインシュタインは、9歳でピタゴラスの定理を自力で証明した。またLDではないが、聴覚に異常がないのに、会話を理解するのが苦手という聴覚情報処理障害という症例もある。「窓ぎわのトットちゃん」もADHDで小学校退学だった。
一方、発達障害を語る際に、障害のない一般的な人に対しては「正常」ではなくて「定型発達者」と呼ぶ。発達障害者と定型発達者とはスペクトラム(連続体)で、明確に線引きすることができないということからだろう。「自分は正常だ」と思っている人でも、よくよく考えれば「これは自分にあてはまるかも」という個性や特性はいくらでも、そして誰でも見い出せる。また社会環境の変化によって、数十年前と比べて「発達障害」に該当する人が顕在化しているということもあるらしい。
近年、ニューロダイバーシティ(脳や神経の多様性)という概念がクローズアップされている。発達障害を病気や障害と捉えるのでなく、ましてや「差別感情で一線を引く」のではなく、脳や神経に由来する特性の違いを尊重し、その多様性を社会のなかで生かしていこうという考え方だ。
「人間はいろいろ、個性(特性)もいろいろ、いろいろあってみんな良い」。こんな社会をめざしたい。 (想田ひろこ)
