旧作『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』の「エンパシー」(他者の感情や経験を理解する能力)と「シンパシー」(誰かの問題を理解して気にかけていること)を、さらに追求し深化させた本だ。第2章〈溶かして、変える〉に引き込まれた。
著者は「誰かの靴を履くためには自分の靴を脱がなければならないように、人が変わる時には古い自分が溶ける必要がある。言葉にはそれを溶かす力がある」「言葉は暴力の生成のメカニズムを溶かすこともできる」と。
突然、坂上香監督の『プリズン・サークル』(2019年、島根の刑務所内にカメラを持ち込み、「TC(回復共同体)」というプログラムを受講する受刑者たちの姿を撮影したドキュメンタリー)が出てくる。TCとは、心理療法的アプローチで犯罪者や依存症を抱えた人びとの治癒・回復を目指し、参加者全員がセラピストであり患者で、当事者たちのコミュニティとしてみんなで互いに治癒し、一緒に回復していこうというプログラムだ。
坂上監督は「日本人は、自分の恥になるようなことは絶対に他人にしゃべらない」という確信を見事に裏切られ、TCの参加者たちが幼少期の経験や犯罪を犯した経緯や、現在の心境について赤裸々に自分の言葉で語ることに目頭が熱くなり、「長年抱いてきた猜疑心が急速に溶けた」と言う。
著者は、然るべき訓練を受ければ誰もが他者に自分の感情や考えを言語化して伝えられるようになり、エンパシーが訓練によって鍛えられると指摘する。その訓練のキーが「エモーション・リテラシー(感識=感情の識字)」。さまざまな感情を抱き、理解し、表現する能力を高めること。感情に振り回されるのではなく、感情を使いこなせるようになるための方法だ。
このTCの授業では、「傍観者」ではなく「参加者」になるよう呼びかける。「傍観者」とは、聞いているふりをしているだけで無関心な人、自己開示をしない人、ウソをついたり正直に言わない人などのこと。それは、自分という個人として他者と関わらないことであり、それは個人性の喪失につながる。「人間は他者と言葉を交わすことによって自己認識に至る言語的存在であり、人間の自意識(「I(アイ)」というアイデンティティの構築)は、孤独の中で自然にできあがるものではなく他者との関わりが作ってゆく」と…。
圧巻は「ロールプレイ(役割演技)」の映像だ。強盗傷害・住居侵入の健太郎は、人のつながりは金銭を通してのみ維持可能だと信じており、罪の意識はなく、「心が動く」というのはわからないと発言する。その健太郎が、強盗で傷を負わせた、おじ役が「どうしてあんなことをしたんだ?」と質問し、おば役は「あれから私、怖くて眠れなくなったんですよ」と。
健太郎が、それら一つ一つの言葉に「自分自身として」答え始め、そのうち突然「鉄仮面」が涙をこぼし始める。すると、被害者役の参加者たちも涙ぐむ。健太郎を責めているTCの参加者たちも、実は何らかの犯罪の加害者であり、彼ら自身も被害者でもあるのだ。
著者は、「被害者役の参加者たちは、まさに『他者の靴を履く』ことによって健太郎の被害者の心情を想像しながら、同時に自分自身の被害者たちの靴も履いているのだ」と言う。他人を演じることが「I」の獲得に繋がるのだ。
英国では演劇が中学校の科目の一つとして導入されている。子どもたちの表現力やクリエイティブを高めるだけでなく、演技が「I」の獲得、エンパシーの能力を向上させることにあるのだ。
最後に、作家ハーパー・リーの一節を紹介する。
「彼の視点に立って物事を考えてみるまで、本当に他者を理解することなんてできない。―彼の皮膚の内側に入り込んで、それを身に着けて歩くまでは」。(石田)