
7月14日、「大阪の海と空を戦争に使わせない会」主催で、「枚方市戦争遺跡巡り」が行われ13人が参加。案内は、枚方観光ボランティアガイドの会の田中さん。
訪れたのは大阪府枚方市禁野(きんや)本町にあった「禁野火薬庫」の跡地です。この火薬庫は1896年に完成し、陸軍の兵器用火薬や砲弾・弾薬を収容していました。その後1936年、東隣に砲弾や爆弾の製造を行う陸軍大阪工廠枚方製造所が開設(戦後、コマツ製作所に払い下げ)。砲弾や爆弾の製造と火薬の充填が一貫して行われるようになりました。

禁野火薬庫は1909年と39年に爆発を起こし、09年の事故の時は、死者は出ませんでしたが、39年の時は死者94人、負傷者602人、家屋の全半壊821戸、4400世帯が被災する大惨事になりました。3月1日、信管離脱作業中に爆発事故が発生し、誘爆に加え強風のために構内一帯が大爆発に包まれたのだそうです。砲弾は半径2キロにわたって飛散、高槻にある京大阿武山(あぶやま)地震観測所では計27回の爆発を記録しました。爆発は3月3日にようやく収まるというすさまじいものでした。
大爆発後の1940年、後世に語り継ぐために殉職者慰霊碑(写真上)が建立されました。また同年、火薬庫は祝園(ほうその)に移転しました。その祝園では、今現在、弾薬庫拡張問題が起き、住民の反対運動が起きています。
禁野火薬庫、枚方製造所ともに火薬を収蔵した倉庫は、爆発しても被害が拡大しないように倉庫の屋根に達する高さまで堅牢な土塁で囲まれていました。今も残る土塁跡(写真下)に、また、戦争を繰り返してはならないと思いました。 (民)
