
7月27日(土) 那覇空港からレンタカー会社までの送迎マイクロバスの運転手さんに「観光ですか?」と話しかけられ、次のようなやりとりに。
「辺野古ってありますよね。カヌーで抗議するため通っています」「ああ辺野古へ」「どう思われます?」「(普天間基地がある)宜野湾の人が可哀そうだから仕方ないかな」「でも普天間の滑走路は2200メートル。辺野古は1800メートル」「そうなの!」「稲田という元防衛大臣が『辺野古ができても普天間の代わりにはならない』と言っていた」「そうなんですか?」「だから辺野古は普天間移設ではなく、新基地をつくり米軍にプレゼントする。深い大浦湾側に軍港もつくる。そばに弾薬庫もある。核兵器を持ち込めば、すぐ積める」「なんで日本はそんなことするの?」「日本は一度決まると駄目だとわかってもやめない、そんな国ですよね」「そうだね」。
この運転手さんは、ぼくとほぼ同年代。ウチナーンチュも、こうして騙される人は多い。
「心は折れない」
7月29日(月) 琉球セメント安和桟橋のダンプ出口で6月27日の抗議行動で不幸な事故にあった女性のお姉さんからお話を聞く。一時は危険な状態だったが、それは脱したとのこと。全身の血液をすべて入れ替えるほど輸血し、左右の大腿骨骨折を含む8カ所の骨折手術が行われた。彼女は「骨は折れても心は折れない」と手術に臨むメモを記したという。
「妹は必ずフェニックスのように、この安和に還ってくる。事故の責任は工事をしゃにむに急がせた沖縄防衛局にある。たたかいの継続を皆で誓おう」と聞かせてもらった。
「海猿くん」との会話
7月29日(月)午後、30日(火) 海上行動に参加した。二日とも台風の影響で撤去されたオイルフェンスの再設置に抗議した。フェンスを曳航するタグボートに向かいカヌーで突進する。人力と、大馬力のGB(海保のゴムボート)の差は埋めがたく、いつものように飛び込んでくる「海猿」君に拘束される。このあと、海猿君との「会話」タイム。
1日目、若い彼に少し世間話をしてから「この埋立をどう思う?」「……」と、はっきり答えない彼。ぼくがプラカードを掲げながらタグボートに、「美しい海を埋めて人殺しのための基地をつくるな!」と呼びかけてから、「どう思う?」と聞くと、かすかにうなずきながら小さな声で「そうですね」。
2日目、もうあまり若くはない36歳だという彼に「この埋立、どう思う?」と聞く。「さあ、政治のことは良くわからないっす」「海保も自衛隊も教師も看護師も、みんな人手不足の日本。政治ってぼくらの税金をどう使うかが大きなことでしょ? 米軍基地にじゃぶじゃぶ税金使ってないで、もっと他に使うところあるんじゃないの?」「それはそうっすね」。
ジュゴンの噛み跡
7月30日(火) 辺野古ぶるーの仲間がGBに拘束された時、台風対策でオイルフェンスの無い、いつもは行けないK8護岸のそばの海中、ジュゴンの海草(うみくさ)のはみ跡のような痕跡を発見、撮影した。
7月31日(水) 海上行動チームとして浜のテントで記者会見。本土マスコミには無視されたが、『沖縄タイムス』『琉球新報』に大きく掲載された。
台風の影響で工事が無かった、オイルフェンスが無かった、海が静かだった、だからジュゴンがやって来た、埋立されてしまう海底にはまだまだジュゴンの食べる海草(うみくさ)が沢山ある。オイルフェンスが無かったから、カヌーもそこに行け発見できた。沢山の偶然が重なった結果ですが、やはりジュゴンの話しも聞いてみたい。きっと「元通りの美しくて静かな大浦湾を帰して欲しい」と言うだろう。
(小野純一/辺野古ぶるーHYОGО)
