憲法違反の「優生手術」を推し進めてきた国を断罪した最高裁判決は、原告だけでなく全ての障がい者にとって喜びの歴史的勝利でした。差別的な国策の基になっていた「旧優生保護法」、それに先んじた戦前戦中の「国民優生法」(1947年廃止)の中で、障がい者がどう生き、闘ってきたか。そのような差別法を許す社会にまん延した優生思想について学んでいきたい。

非人道的な不妊手術

優生保護法被害裁判を闘えたのは残念ながらごく一部の障がい者です。差別され、抑圧された人生を送ってきた人たちにとって、名前を出し、顔を出し、法廷に立ち、社会に訴えて闘うことは、どれほどの覚悟が必要だったでしょうか。そこに踏み出すまでにいたる悔しさと屈辱感はどれほどのものだったでしょうか。国策に基づき加担したのは医師、ナース、介護士だけでなく、手術を是とした社会全体です。
国は不妊手術の予算を増やし、現場に手術の拡大と促進を指示しました。養護学校に通う重度脳性まひの女生徒は初潮を迎えたとき、「自分で生理の始末ができないなら、子宮を摘出すべきだ」という言葉を看護師から投げつけられました。「手術はしない」と意思表示すると、「では自分で始末しろ」と言われて針のむしろのような「介護」が待ち受けていました。
手術の適用を審議する審査会は、「工場地域だから男性労働者が多い。14歳の女性障がい者は誘惑される恐れがある」という理由で、その女性の不妊手術を「適」と判定しました。誘惑する男性の方に問題があるのに、どうして女の子が不妊手術を強制されなければならないのですか。理不尽だとは思いませんか。また障がい者施設への入所の引き換え条件として手術を強制されました。9歳の女児にも不妊手術が強行されました。
4人の男児は「凶暴性」を理由にこう丸を切除されました。性的暴行の被害者である少女に対しても、人工妊娠中絶とともに卵巣切除が行われました。そのたびに手術の関係者・加担者たちは障がい者(児)たちに、「(障がい者には)貞操感がない」「公益上必要だ」「あんたみたいな人(障がい者)が、子どもを作ったら大変だから」「(障がい者の)赤ちゃんは腐っている」という言葉を投げつけました。
考えてもみてください。健常児ならば、初潮を迎えた時には赤飯を炊いてお祝いされるのですよ。健常児なら「やんちゃ」とか「おてんば」といわれて、むしろ喜ばれる元気な子どもの個性が、どうして障がい児の場合は「凶暴性」にされてしまうのですか。
まだ成長途上にある子どものこう丸や卵巣を切除すると、ホルモンバランスを崩して身体全体に深刻なダメージを与え、生涯苦しめられることになります。医師や看護師はそのことを重々承知した上で執刀していたのです。

初期の優生思想

今から約100年前に『優生学講座』(全9巻)という書物が出版されました。当時の著名な学者たちが、「遺伝学」「犯罪学」「精神病学」「宗教学」「社会学」「心理学」「環境学」といった多種多様な切り口で優生学を論じ、優生思想の普及に尽力しました。
また1910年に海野幸徳(ゆきのり)という社会事業学者は、「日本人種改造論」を出版して生物進化論や自然淘汰(とうた)を説き、「慈善」が、淘汰されるべき障がい者や犯罪者を生き延びさせて、「日本人種」の「改良」を妨げていると主張しました。「悪質者」に断種(不妊手術)をしないことが、いかに国家に損害を与えているか、この政策(不妊手術)に消極的であることは日本を滅亡に導くと訴えました。
このように日本の社会事業学(今日の社会福祉学)はその形成過程で優生思想がしっかりと組み込まれていきました。それが侵略と戦争の時代に全国民を巻き込みながらどのように「発展」させられていったのかは、容易に想像がつきます。
次号では8年前の7月26日に19人の障がい者が虐殺された津久井やまゆり園事件について触れたいと思います。(想田ひろこ)
参考文献:藤井渉『ソーシャルワーカーのための反「優生学講座」』(現代書館、2022年)