廣島二中の慰霊祭=8月6日

8月6日の朝、午前8時。1年生321人が全滅した旧制廣島2中の慰霊祭に参加するため、平和公園に向かった。例年警察官数人に「どこへ行かれますか」と聞かれることはあったが、今年は全く違った。あちこちに検問所が置かれ、金属探知ゲートを通らせ、荷物を開け調べていた。
検問所には数十人が並び前に進めない。8時15分に間に合うか心配になった。通過の際、「検査済」の黄色いテープを手首に巻けと言う。冗談ではない。8月6日は慰霊の日であり、核兵器廃絶をめざす場である。
岸田首相やイスラエル代表を「守る」ための警備か。「核の傘、核安保」を掲げる首相や、核を保有し使おうとするイスラエル代表が来るところではない。9日は長崎市がイスラエル代表を招致しなかった。G7がそれに反発し欠席した。日本政府は、「米国の反発が予想される懸念」を長崎市に伝え、圧力をかけた。
欠席したのは、「核兵器廃絶に向け大きくかじを切るべき」「1日も早く、核兵器禁止条約に署名・批准することを求める」という長崎平和宣言に反する国々だ。
本川河畔の廣島2中の慰霊碑前、後身の県立観音高校の先生、生徒が慰霊祭のために集まっている。「8・6ヒロシマ平和の夕べ」を共に続けてきた被爆二世で観音高校の卒業生の河野美代子さんと毎年ここで会う。8時15分、高校生たちと黙祷した。
出席する人たちも、遺族や関係者は少なくなっているのだろう。私も、父母はもとより兄姉もいなくなった。父は語らず、「慰霊」に訪れることもなく、母は家で仏壇に向かうのみだった。後身の高校生たちが毎年暑いなか慰霊祭を準備し、追悼の行事を続けている。「核廃絶」の意識は卒業してからもきっと続く。
警備のことに戻る。河野美代子さん、曰く。「こんな警備に守られなければならない人は、来なければいい。そもそも総理は式典に来ていなかった。初めて来たのは1971年、時の佐藤総理。車を囲み、『来るな、帰れ』と拳を上げた」「新聞は『総理の背に、被爆二世の叫び』と書いた」「8・6は遺族や市民が涙ながらに祈り、核廃絶を決意する。それをむなしい言葉を吐く政治家のための場にしようとしている」。(竹田雅博)