都知事選では立憲民主党が推薦する候補が惨敗

【Ⅳ】より強力な新自由主義(石丸)

「石丸には政策がない」という批判があるが、的外れだ。安芸高田市で進めていたのは、まぎ紛れもなく「新しい公共経営」・新自由主義そのもの。居眠り議員を「恥を知れ」と一喝したアレ(当該議員は病気だったらしいが)。まさに、「古い枠組み」の象徴であり、それを血祭りにあげる格好の構図だ。
ところで「古い枠組み」とは何か? まずは、一般に想起されるように、社会の上から下まで、家父長制オヤジを中心に、しがらみと世襲、業界と利権、前例踏襲と年功序列、不正・差別・不平等で回っている、政治・経済・社会の「牢固(ろうこ)とした旧弊」である。ここから、何か創造的なもの・革新的なものなど出て来ようもない。日本の停滞と閉塞を象徴している。
石丸の政策はそういう「古い枠組みをぶっ壊す」の一点。むしろ細かい政策を言わない分、その一点が「分かりやすい」のだ。そして、石丸からすれば、小池はまだ全然ぬるい。小池が「古い枠組み」に配慮しているからだ。
しかし、新自由主義が「ぶっ壊す」のは、上述の「牢固とした旧弊」だけではない。その点が重大だ。平和や人権、自治や民主主義、労働組合や労働者の権利、社会保障などの「戦後的な社会制度」も、「古い枠組み」だとして「ぶっ壊す」というのだ。「牢固とした旧弊」も「戦後的な社会制度」も一緒くたに「古い枠組み」とするところに新自由主義の悪辣(あくらつ)な意図があるのだ。

なぜ若者が石丸に?

だから、石丸に投票する若者を見て「理解不能」「世も末だ」と年配世代が嘆くのも分かる。
しかしやはり、若者の抱いているいら立ち、不安や焦燥に向き合う必要がある。何にいら立っているのか? 日本社会の停滞・閉塞にたいして。そして、「古い枠組み」「牢固とした旧弊」にたいして。のみならず、「古い枠組み」に安住しているように見える左派・リベラル(【Ⅴ】【Ⅶ】で言及)にたいしても。
新自由主義は、このような若者に響く側面を持っている。新自由主義とは、簡単に言えば、ⅰ.無制限の自由と利益を追求するグローバル資本の運動であり、ⅱ.戦後的な国家と経済の枠組みの打破の要求だが、ⅲ.その貫徹過程が「古い枠組み」を一掃しフラット化するという方向に作用する。
こう見たら、若者が石丸を支持するのも、一定理解できるのではないか。もちろん、「古い枠組み」の打破は、同時に「戦後的な社会制度」の破壊であり、フラット化の先にあるのはむき出しの能力主義と競争主義の原野であり、結局、グローバル資本による搾取以外にないのであり、それが大問題なのだが。

【Ⅴ】対抗ビジョンの不在(蓮舫)

若者が石丸に、それ以外の全世代で小池が多数に。蓮舫は、10~50代で選択肢に入れず、結局、得票は60代・70代の左派リベラルだけだった。(前号【Ⅰ】表・参照)
何が問題か? 蓮舫の掲げた政策の一つひとつは妥当だった。非正規格差の解消、子育て世代の支援、医療・介護職等の処遇改善、神宮外苑(がいえん)再開発見直し…。しかし、それだけでは他候補への対抗にはならない。他方で、「蓮舫の印象が」とか「共産党が」といったことをマイナス要因に挙げる向きもあるが、それが主要な問題ではない。
むしろ、蓮舫の政策を街頭で聞いた人たちから「わかりにくい」と指摘されている点こそ、核心問題が突き出されていると思う。それは、政策が各論の寄せ集めで、「大きなビジョン」が見えないという指摘に他ならないからだ。
まさに、蓮舫(候補当人に限らず政党、左派・リベラル全体)に欠けているのは「大きなビジョン」だ。つまり、ⅰ.小池や石丸に対抗して、「古い枠組み」と新自由主義の両方をくし刺しにする、オルタナティブな変革ビジョンがない。ⅱ.しかも、政策的な言葉が、社会運動的な実践(社会的連帯経済、ミュニシパリズム、労働組合運動など)から発せられていない。だから「わかりにくい」のだ。
運動の戦略について、【Ⅱ】で次のように考えた。―日本の長期停滞問題を巡る議論を、①「古い枠組み」の墨守か、②「古い枠組み」を打破する新自由主義か、③「古い枠組み」と新自由主義をくし刺しにするオルタナティブか、という3つの選択肢に整理して可視化・争点化し、その論戦の中から、一個の選択肢として登場していく。これが運動の戦略だろうと。―しかし、対抗するビジョンがないから選ぼうにも選択肢たりえていない。それが問題の核心なのだ。(つづく)