毎年続けてきた「ピースフェスタ明石」が8月10日から開かれた(~18日、明石市内)。20回を迎えた。1995年からの「平和のための戦争展」「明石平和の集い」を引き継ぐと、30年続いてきた。とりくむ人たちの高齢化も進む。戦争を伝え、平和を訴える。その継承と今後のあり方も、考え議論していく必要がある。
若い世代、高校の新聞部とも交流してきた。今年は、市内の小学校での取り組みを知ることができた。戦争が続く世界、軍拡の日本。今年の展示「ウォールギャラリー展」では、広島原爆資料館から「はだしのゲン」複製原画を借り「サダコと折り鶴ポスター」「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真」の3種のパネルを展示した。

戦争体験、語りと展示

17日「戦争体験談の集い」と18日「神田香織さん講演」に合わせた、「今と昔、平和を考えるギャラリー展」には、実行委員による手作りで憲法、オキナワ、フクシマ、明石空襲、戦時下の暮らし、「あすわか兵庫」のパネル、子どもたちが作った「今を生きる等身大のボクとワタシ・20人」が並んだ。
17日の戦争体験談の集いでは、明石市内で空襲を受けた牧野満徳さん(85歳、写真上)、中国残留婦人の2世(子息)の郭振鐸さん。高松の女学校3年のときに学徒動員で空襲にあった入江一惠さん(94歳)から体験を聞いた。

戦跡に学ぶ

牧野満徳さんは、「小学校に入る直前の1945年1月19日、家の近く人丸小学校付近で艦載機の機銃掃射に遭った。姉の機転で側溝に飛び込み命拾いした」と話した。観光ボランティアガイドを務め、明石市内の戦跡を訪ねるねるピースウォーク・戦跡めぐりを14年間続けてきた。
郭振鐸さんは、日本政府から見捨てられた存在だった母と、自身も日本語が話せなく、働くにも資格がないなか、ボランティアの援助によるしか生きられない厳しい状況だったことを、手記を読みながら語った。
入江一惠さんは、当日は体調悪く参加できず実行委員が代読した。高松の女学校3年の時、学徒動員で戦闘機を作る工場の板金工になった。工場で会った、栄養失調で顔がむくんだ養成工を見て、戦後は栄養学を学んだ。明日出発するという少年特攻兵と、最後に語り合ったという。
6月の戦跡めぐりのとき、「戦争はいけない。空襲体験を語らずにはいられない」と話してきた矢野蓉子さんが明石で空襲に会った体験を証言した。市内の高校新聞部の生徒たちも参加し、熱心に聞いていた。120人が参加し用意した資料もなくなった。

『はだしのゲン』、原発事故

最終日の18日は、講談の神田香織さん。「うったえは明るく、楽しく、しつっこく」と、戦争と平和、原爆とフクシマへの想いを語った。観光旅行で出かけたサイパン島の「バンザイクリフ」の悲劇を知り、反戦を自分のテーマにすることを決めたという。
『はだしのゲン』に会い、作者の中沢啓治さんにも励まされ、チェルノブイリ原発事故を想い、以来『ゲン』を語り放射能の恐ろしさを語ってきた。2011年、フクシマ事故が起こる。ふるさと福島で原発事故が起きた。今なお避難し、家族も別れわかれになった人たち。故郷の現実を語り、『はだしのゲン』の一部を演じた。
今、再び三度、戦争の危険を感じる世界。ピースフェスタのあり方を考えていく。(江戸信夫)