【Ⅴ】対抗ビジョンの不在(承前)

「裏金・自民=小池」は下策

付言すれば、各論的な政策だけでは厳しいと、選挙戦の途中から、「裏金自民=小池」を争点化する方向に転換したが、それが下策だった。裏金問題は単に自民党の問題ではないのだ。端的に言えば、カネを受け取る政治家がいるのは、カネを出す財界・大企業がいるからだ。税金も払わず・労働者いじめ・下請いじめで利益をため込んでいる大企業の大口献金が、裏にも表にも還流している。献金するのは、はるかに上回る便宜や利益が供与されるから。つまり、「裏金関係」が日本の経済と政治の基本構造と化している。これは「古い枠組み」そのもの。単に、政治家の資質や選挙制度の問題にとどまらない。だから、的外れな「裏金」批判を言えば言うほど、むしろ「古い枠組みをぶっ壊す」という石丸票を増やす結果になった。

「私ら通用せんのか」

これは辻元清美の弁だが、その通りなのだ。単に候補や政党でなく、左派・リベラル全体が通用しない。問題はなぜかだ。
「あなたたちは『反対! 反対!』としか言わない」。こう批判された経験のない人はまずいないだろう。反発してしまうが、これは痛いところを突いた指摘だと気づくべきだ。どういう問題を指摘しているのだろうか。
ⓐ左派・リベラルの運動には、現実を変えるビジョンがない。ⓑビジョンがないということは同時に、現実を変えようという本気さもないということだ。ⓒ少数でも「正しい」ことを言い続けることが大事だとして、大多数(小池+石丸に投じた7割)に向き合うことから逃げていく。ⓓ結果、活動が話の合う仲間内だけの「活動のための活動」、「自分は正しい」と自己確認する活動になっている。
もちろん、一つひとつの活動が重要であることは間違いない。しかし、人びとは左派・リベラルを、活動できている現状に満足している世代と見ている。あるいは自民党は「古い枠組み」そのものだけれど、左派・リベラルも「古い枠組み」に依存し安住していると。

反省と希望

以上が、小池・石丸に7割近い票が集中し、若者から働き盛り・子育て世代にわたって、蓮舫=左派・リベラルが選択肢に入らなかった大きな原因であると考える。都知事選の結果を「民衆の冷厳な選択」と受け止め、真剣な反省と大胆な転換をかち取らない限り、この趨勢(すうせい)はとめられない。
しかしまた、希望がないと言っているわけでは全然ない。なぜなら、昨日、小池や石丸に票を投じた人びとが、明日には、よりラディカルでオルタナティブな選択を求めて流動してくることはほとんど疑いないからだ。

【Ⅵ】一大構造変動と変革ビジョン

ところで、【Ⅳ】で「古い枠組み」という問題を俎上(そじょう)に上げ、新自由主義の側の議論として、「牢固(ろうこ)とした旧弊」も「戦後的な社会制度」も「古い枠組み」としているということを述べた。「古い枠組み」という問題を、もう少し包括的に言えば、「戦後のシステム」であり、国家独占資本主義体制とか、フォーディズム国家、福祉国家などと言われてきたものと同じことだ。
一般にも、国民国家・国民経済というように、あるいは日本国と日本経済が概(おおむ)ね一致しているように、「戦後システム」は、国家と経済・社会が一致し、経済・社会を国家が総括している点が、当たり前の特徴だろう。これを「国民国家・国民経済=集権型システム」と呼ぼう。

一大構造変動

ところが、その当たり前が当たり前でなくなっている。グローバリゼーションである。
そこでは、資本の運動が、もはや国民国家・国民経済の枠に収まらない。資本が私的な利益の追求を全面化・極限化し、社会的な要請や規制から乖離(かいり)して暴走し、そういう資本の運動を、国家が公共的に総括できない状態に陥っている。国民国家・国民経済というシステムが機能不全に陥っているのだ。
資本が、社会から乖離し、国家をもって社会を総括できない。それはしかし、次のように肯定することもできる。人間が資本と国家の支配から主体性を回復し、「資本の社会」ではなく、「人間の社会」を作り始める時代の兆しであると。
そして、この事態を資本主義200年の歴史の中で見たとき、(コンドラチェフ波動論に踏まえれば)、4度目の一大構造変動の時期に差しかかっていると考えることができる。(つづく)