賀川豊彦記念館(徳島県鳴門市)

旧土人保護法

明治維新と「文明開化」。今回は大日本帝国の形成過程で、明治政府が優生思想をどのように利用し、内在化していったのかについて。
1899年に北海道旧土人保護法が制定された(これはなんと1997年まで継続)。法律の趣旨は「アイヌの人たちに土地を与えて農業を奨励する」「医療、生活扶助、教育などの保護対策を行う」とされていたが、要するにアイヌ民族に対する同化政策を目的としたものであった。
そこでは先住民のアイヌ民族を「狩猟・焼き畑農業を主とする文明以前の滅びゆく劣等民族」とみなし、優生思想に基づく差別感情がむき出しになっていた。「土地を与える」というが、もともと北海道はアイヌ民族の土地(アイヌモシリ)である。当時の農業技術では本州以南で行われていた稲作は不可能であり、広大なアイヌモシリで、狩猟や焼き畑農業を生業とするのは合理的な選択だった。明治政府はそのアイヌ民族の生業を奪った。これは「同化」というよりも、「淘汰」と呼ぶほうがふさわしい。

侵略の正当化

明治政府は維新(1868年)直後から他国への侵略にうって出た。琉球併合(1872年)、台湾併合(1895年)、韓国併合(1910年)と続くが、明治政府はこれらの侵略行為を正当化するために優生思想を鼓吹した。「彼らは弱体な劣等民族であり、優秀な日本人が植民地支配するのは当然である」という差別イデオロギーを流布し、日本国民を侵略戦争に動員していったのだ。
しかし考えてもみよ。日本に文字、仏教、農業、機織りなどの文化を伝えたのが朝鮮半島の人びとであり、古代日本の支配層が朝鮮半島由来の「渡来人」であったという歴史的事実がある。どこをみて「劣等民族」などと言えるのか。
こうした差別イデオロギーは被差別部落にも向けられた。「部落民の先祖は朝鮮人」という全く根拠のない俗説を流布したり、「部落民は長い間、同じ身分の中で血族婚を繰り返してきた結果、遺伝的に劣等な人種である」という、これまた全く科学的根拠のない偏見を生み出したりしてきた。また「特殊部落」「特種部落」という用語は、何よりも政府が行政用語として正式に使用し、一般社会に普及させたという事実を忘れてはならない。

社会運動と優生思想

優生学はこうした社会の動きに連動しながら発展していった。1916年に『優生学―人類の遺伝と社会の変化』(斎藤茂三郎)が出版され、1924年には後藤龍吉が日本優生学会を設立した。
そしてかの賀川豊彦(1888―1960)も優生思想のオピニオンリーダーとして活動した。生前の賀川は世界的な有名人で、何度もノーベル賞候補にあげられ、インドのガンジーとも親交があり、多彩な社会運動家だった。
彼は敬虔なキリスト者として、若い頃に神戸のスラムで生活し、行き倒れの人を汚物にまみれながら介抱した。不衛生な環境のせいでトラコーマ(伝染性の結膜炎)を患い(妻は失明)、貧民のために尽くした人である。私の中にはそんな賀川豊彦像しかなかった。
ところが、後年の賀川は、貧困の原因として「アルコール依存」「不幸なる結婚」「悪質者との婚姻」をあげた。「悪質者」とは知的障がい者や精神障がい者であり、犯罪も「血族血統によるもの」と主張した。
また被差別部落の住民に対する評価は特に酷い。部落民は「悪質者」であり、「日本人の退化種」「日本帝国中の犯罪種族」「日本の売春種族」だと言った。他にも「色情狂(ママ)」はアルコール依存や梅毒患者の遺伝とも。
私は優生思想の歴史を学ぶ中で、賀川がスラムで生活しながら、おぞましいほどの差別意識を身に付けていったという事実を知り、ショックを受けた。賀川の「貧困問題の解決」とは、「悪質者」と断定された人びとに不妊手術(断種)を実施して、子孫を絶つことだった。社会から「悪質者」を一掃して、「人種改良」を施すことだった。彼はハンセン病についても「絶対隔離政策」を支持した。若き頃の賀川の貧民への献身を疑いたくはないが、彼の思想と信仰をこれほどまでに変質・転向させた優生思想の根深さには、がく然とせざるを得ない。
次回は、国家総動員態勢へと向かう1930年代以降の優生思想について。(想田ひろこ)

【参考文献】『国から子どもをつくってはいけないと言われた人たち ―優生保護法の歴史と罪』発行:優生保護法被害者兵庫弁護団、優生保護法による被害者とともに歩む兵庫の会