
徴兵検査
戦時下とは個人が最もないがしろにされた時代。国民は「臣民」「天皇の赤子」であり、一銭五厘の赤紙で戦地に送られた。人間の価値は戦争の維持・遂行にどれだけ「役立つ」かで決まる。徴兵検査では最も優秀な甲種合格、その下に乙種合格、丙種合格と続き、最後に「丁種不合格」と選別された。言うまでもなく障がい者は「廃疾又は不具等」として丁種不合格の「辱め」を受ける。
徴兵に一家の働き手を奪われ、生命の保障もなく、人びとは塗炭の苦しみにあえぐこととなった。それだけに不合格として徴兵を免除された障がい者にたいする迫害と侮蔑は激しくなり、非国民・国賊と罵られた。
1936年には政府は軍部への統制力を失い、陸軍がその実権を握るようになった。軍事費は国家予算の半分になり、戦局が厳しくなると、政府は徴兵検査基準を緩和し、「虚弱者」や「軽度障害者」まで根こそぎ動員する方針に転換した。
健康報国
強い兵士や産業戦士を確保するためには「国民の体力向上」が必要だとして、1938年に厚生省が設置された。政府は「人口こそ国力」と「産めよ、増やせよ」のかけ声の下、国民に多産を求めた。特に貧困・零細な農民は兵士獲得の対象として狙われた。
当時の死因のトップは「国民病」と恐れられた結核だった(抗結核剤ストレプトマイシンが普及したのは戦後)。結核の予防は「国民の責任」とされ、休養・栄養・大気(換気)の「三大原則」が叫ばれた。しかし、庶民にとっては休養などを取っていたら生活は成り立たない。栄養のある食事といっても、それができたのは特権階級だけであろう。そもそも結核が全国的にまん延したのは、劣悪な労働条件の下で酷使された女工たちが次々と病気となって使い捨てられ、農村に帰郷していったことが原因ではなかったのか。当時の非道な「殖産興業政策」が結核を「国民病」にしたのだ。
また結核以外にも、コレラ、赤痢、腸チフス、ジフテリア、とうそう痘瘡、はっしん発疹チフスなどの感染症が猛威をふるった。
国民健康保険法
1938年、厚生省設置に続いて国民健康保険法が成立する。当初、わずか52万人だった被保険者は、6年後の1944年には4116万人に膨れあがり、それまで健康保険の対象外だった農漁民や個人商店主にも適用され、母子保護法、保健所法、無医村対策と政府は人的資源の確保に必死になった。厚生省は「健康報国」というスローガンを唱え、「国民の義務」として「健康」を強制した。裏を返せば、病気になったり障がいを負った者は責任が問われ、「国益を損じた」と批判された。
こうした政策は「戦争の渦中にありながら社会保障制度を充実させていた」ということでは決してない。あくまでも戦争の維持・遂行が目的であり、「国民の福祉向上」のための内実を伴うものではなかった。
国民優生法
1940年、健兵健民政策に基づき、「国民体力法」と「国民優生法」が表裏一体で登場する。後者は遺伝性とされた障がい者や病者への断種・不妊手術を合法化した。
「健全な素質の若者が未婚で子どもを作れず、兵役に取られて戦死する」、その対極で、「徴兵検査で丁種不合格となった病者や障がい者が生き延び増殖する」ことへの憎悪の声が上がる。「優生学では〝優秀なものが生き延び、劣ったものが淘汰される〟はずなのに、その逆ではないか」と。
「国民の劣化」が真剣に懸念されるなかで、障がい者などの排除と「剪除」(せんじょ)が立法化されていったのだ。
脊椎カリエスで寝たきりの青年の下に徴兵検査の命令が届いた。彼は兵役免除の手続をしたが受理されず、憲兵から罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけられ、暴力を振るわれた。それを見ていた近隣の住民は彼をかばうどころか、「非国民・国賊」と罵った。追い詰められた彼は自死するにいたった。この時代に障がい者がどのような思いで生きてきたのかと想像すると胸が張り裂けそうになる。(障がいのある子どもは、戦争末期の学童疎開からも除外された。彼らの命は守るべき対象ではなかったのだ。)
精神科病院に入院していた患者たちの処遇も悲惨だった。1879年に開業し、今も精神科専門病院として日本一の病床数を有する東京都立松沢病院では、1945年の入院患者の死亡率は40・9%だった。死因は栄養失調と発表されているが、1年間で入院患者の4割が死亡するということは、餓死以外に考えられない。(想田ひろこ)
