人とし生きるために

2015年1月11日夜遅く、資材搬入のダンプが来るとの情報で、山城さんの指揮の下、工事用ゲート前でピケを張っていた。その待機中、福岡から来られていた高齢の女性が、1960年の三井三池闘争時に歌われた歌と紹介し、『人とし生きるために』を歌ってくれた。その歌に私は聞き覚えがあった。そうだ、50数年前の東大闘争支援のとき、教育学部構内で教えてもらった歌だと思い出した。二番三番の歌詞を参加者のヤスさんがスマホで見つけて、彼女に続いて歌った。
じつはこの歌は三井三池ではなく、1959年北海道の太平洋炭鉱閉山時に作られた歌である。これ以後、私はゲート前でこの歌を歌うことに決めた。「歌詞を教えてください」と言われたり、ある方からは「いい歌ですよね。この歌は60年安保闘争の時に亡くなった樺美智子さんの追悼集会でも、歌われていました」と教えてもらったりしたこともある。
数年後、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんの『米軍と農民』(岩波新書)を再読していると、この歌にまつわるエピソードが書かれていた。伊江島の土地闘争である「乞食行進」を始めたのが1956年、その翌年、北海道芦別市の太平洋炭鉱労働者から「三輪車(三輪自動車のこと)一杯、土地問題始まって以来最大の量の尊い品々が届きました」(141頁)と書かれていたのだ。阿波根さんたちの闘いの中で、炭鉱の労働者が支援物資を送ったことは知っていたが、それが太平洋炭鉱だということを読み飛ばしていた。北海道と沖縄との深い絆を知り、この歌をゲート前で歌い続ける意味を感じた。
歌詞には、「金のためには 人の命も奪い去る 奴らに怒りが燃える」「人とし生きるため 子らの未来のためにこそ 搾取の鎖を断ち切ろう」と、炭鉱労働者の怒りや願いが綴(つづ)られている。
辺野古新基地建設に抗議し、ゲート前で座り込んでいる人びとの琴線に強く触れるものがあったのだろう。蛇足だが、私は歌の最後に「子らの未来のためにこそ 辺野古新基地阻止しよう」を追加して歌っている。嬉(うれ)しいことに、最近、私の他にもこの歌をゲート前で歌う参加者もある。

皿うどんを辺野古へ

話は変わる。「皿うどん」を知らないヤマトの人はいないのではないか。東日本大震災後のボランティアに行った際、被災した人たちに皿うどんを何度かお出ししたことがある。それというのも、私が参加した大槌のベースはカリタス長崎教区の担当で、おいしい皿うどんの簡易パック麺(めん)とスープの素(もと)のセットをたくさん送っていただいていた。温かくて、野菜と肉やイカなども一皿でとれる、ぜい沢ではないがほっとする一皿だ。
辺野古でも、スタッフやテントに宿泊している人たちに皿うどんの夕食をと考えた。しかし、2015年ころは、沖縄のスーパーには「皿うどん」が置かれていなかった。そこで具になる豚肉などは名護のスーパーで購入し、本体(?)の皿うどん(30人分)は大阪からリュックに入れて持っていくことにした。皿うどんは軽いが、かさばる。スカイマークの持込み荷物に、まさか「皿うどん」が入っているとは客室乗務員も知らなかっただろう。
高江のN1裏テントでうどんを食べてもらったことがあった。ヤンバル出身の人に「どうやって食べるの?」と聞かれた。沖縄の多くの人たちにとって皿うどんは、初めて食べる料理だった。なるほど、スーパーに置かれていないのも当然と納得した。食べてもらうと、「おいしい。どうやって作るの? 今度はいつ?」と聞かれる。こうして賄いとして皿うどんを出して数年後、沖縄のスーパーにも皿うどんが並び出した。いまでは大阪から皿うどんを持参する必要もなくなった。食の交流である。(住田一郎)