先日、新聞の投稿に「職場の若い同僚で労組の活動もやってくれないかなと思っている人が、『原発がなければ日本の産業が滅ぶ。反対だけを言っても意味がない』と言い、ちょっと論争。原発とは人の生死の問題であり、放射能加害の問題なのですが、どうもそれが伝わりません」というのがあった。

現実を見ない保守

原爆の後、被爆者・森瀧市郎さんが言った「核と人類は共存できない」の警句は、よく知られている。しかし、核・原爆・原発については、その本質も実際の被爆、被曝、極限的事故も、さまざまに曲解されてきた。この同僚の人に、どのように考えてもらうか、けっこう難しい。そんなとき、大飯原発運転差止め判決(14年)を出した裁判官、樋口英明さんの『保守のための原発入門』を読んだ。樋口さんには、19年の「8・6ヒロシマ平和の夕べ」でも話してもらった。
「はじめに」の冒頭、「保守は本来、現実主義者である。現実を直視しない保守が権力を持つことは無価値というより、有害。しかし、私は現実を見ようという保守が多くを占めていると思う」と樋口さんは述べる。樋口さんが裁判長だった14年、福井地裁「大飯原発運転差止め」判決の一文、「コストの問題に関連し国富の流出、喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、それを国富の流出というべきではなく、国土とそこに国民が根を下ろし生活していることが国富、それを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」(抄)と論じた。
「保守を標榜する」言論人たちは、「この裁判官は革新的な人、判決は左翼的だ」と批判した。樋口さんは「先入観なく読んでほしい。ここに述べられているのは、間違いなく保守の精神である」と言う。

「珠洲に原発があったら」

出版は今年の8月6日。1章にM7・6の能登地震と原発。「もし、珠洲に原発があったら。福島原発事故を超えるような苛酷事故が避けられなかった」と…。半島先端にある珠洲市は、1975年ころから原発建設が持ち上がっていたが、住民の反対運動で2003年に凍結された。今回の震源は珠洲市直下。M7・6に直撃されれば、稼働していればもとより運転休止中であったとしても配管や配電装置どころか、原発の構造そのものも危うい。「この本を書くこと、読者が読むことができるのも、珠洲原発建設反対の運動をしてもらった人々のおかげ」という。
28年もの反対運動の原動力は何だったのか。樋口さんは、「保守とは何かの定義は様々かもしれないが、先人への敬愛の念と自分も後世に恥ずかしくない生き方をしたいという心情、行動かもしれない」と語っている。
福島事故について「報道されない原発のトラブル」「飛散した放射性物質」「使用済み核燃料貯蔵プール」「現在の状況」を書き、2章では「原発の本質」「多くの誤解」「国や社会への過信」などを明らかにする。

被害の想像力と裁判

3章に、裁判官・法曹の側から「原発は(管理が間違ったら)暴走する。暴走した場合の被害は計り知れないということを、裁判官が理解しているかどうかが正しい裁判になる分かれ目だ」とし、自主避難者を含め損害賠償請求訴訟、運転差止訴訟などに言及する。
4章で、あらためて「保守と原発」を考える。「原発も地震も事実」「もう一度、原発と地震をあるべき位置においてみよう」というのが本書の試みであり、趣旨でもある。(竹田雅博)