『二人の死刑囚』というドキュメンタリー映画で、袴田巌さんの表札が映ったシーンがあった。それを観た人が上映後の感想に「表札には、HAKAMATAになっていましたね」と発言した。観察力の鋭さに感心した。
無意識に「はかまだじけん」と呼んでいるが、人の名前が事件名になっているのは、「免田事件」と「袴田事件」くらいだろう。多くは、地名が事件名になっている。静岡県下の事件、「島田事件」「二俣事件」「幸浦事件」などがある。
事件名は警察が付けると思うが、「袴田事件」という名称は悪意を感じる。極悪な元プロボクサーが起こした事件という印象操作があると思う。本来なら「清水事件」とか「こがね味噌事件」と呼ぶべきだ。

冤罪多発させた静岡県警
静岡県警には、冤罪事件が多い。紅林麻雄という刑事がいたからである。紅林は、取り調べの際に被疑者とされる人物に拷問を加え自白を強要し、犯人にでっち上げた。「袴田事件」の時(1966年)には、紅林は亡くなっていた(1963年)が、紅林の手法は静岡県警の部下に引き継がれ、強引な捜査が行われた。
静岡県清水市の「こがね味噌会社」(遠洋漁業船用に味噌を販売)の専務宅から出火、焼け跡から専務の橋本藤雄さん、妻のちゑさん、次女の扶示子さん、長男の雅一郎さんの惨殺死体が見つかったのが、1966年6月30日だった(その日、長女は祖父母宅で寝ており、難をのがれた)。
7月4日には、袴田巌さんに任意の事情聴取を行っている。その段階から犯人扱いだった。8月18日の朝6時に警察に連行され、その夜に強盗殺人・放火・住居侵入などで逮捕される。その日から清水警察署で厳しい取り調べが続き、勾留期限3日前の9月6日、ついに「自供」に追い込まれる。9月9日、起訴され静岡地裁の裁判になる。

48年間の自由はく奪
以来48年間、2014年3月27日の静岡地裁・村山浩昭裁判長による再審開始決定と死刑の執行停止、拘置停止により釈放されるまで自由を奪われ続けた。
日本の死刑制度の残酷さは、絞首刑という方法もさることながら、土・日・祝と12月29日から1月3日までを除き、いつ執行されるかわからないという恐怖を死刑囚に強いているところにもある。
袴田巌さんも、死刑が確定した1980年頃から拘禁反応で精神がすり減り、本の副題のように「神になるしかなかった」のだろう。姉のひで子さんによれば、釈放されて数年間はあくびさえもしなかったそうだ。
無辜の無実の人をここまで追いやる日本の警察、検察そして裁判制度。5点の衣類が出てくる不自然さ。袴田巌さんには履けないズボン。そのズボンよりも、多くの血がついていたステテコ。1年2か月も味噌に浸かっていたら、真っ黒に変色して当たり前。どう考えても袴田巌さんは無実なのに…。
無実の証拠で自白を強要
この本には、5点の衣類以外にも無実の根拠が述べられている。一つは、袴田巌さんの「右足の脛の傷」だ。逮捕時の身体検査調書には、傷があると書いてない。しかし、自白調書には「被害者に蹴られた」とあり、確定判決で採用された証拠にもなっている。つまり、自白に基づいて逮捕後に出来た傷なのだ。二点目は、犯行時に出来たという右肩の傷だ。右肩の傷の位置と、シャツに残っていた穴の位置が合わない。
最後に凶器とされた、くり小刀に。このくり小刀は、犠牲になった次女の足下にあったものとされ、刃渡り12センチ、刃幅2・2センチであった。木工用の小刀で、4人に合計40か所ほどの傷を与えられるわけもなく、刃こぼれや刃の折れ曲がりもなかった。
くり小刀を売ったとされる沼津の菊光刃物店の高橋みどりさんは、裁判で意に反した証言をしたと気に病んでいたという。2014年の冬、「私、本当は袴田さんを見てないんです。本当は見憶えがなく、思っていることとは違う証言をした」と告白している。先日放映されたテレビのドキュメンタリー番組を観ていたら、みどりさんの息子さん高橋国明さんは、群馬県での支援集会で、「当時、菊光刃物店は刃渡り13センチのくり小刀しか売ってない」と発言していた。
今年年9月26日、袴田巌さんの再審無罪が勝ち取られ、10月8日、検察は控訴を断念した。袴田巌さんは58年ぶりに自由になった。支援グループの人たちが袴田巌さんの見守り活動などを、ほんとうに懸命にやってこられたこともわかり、敬意の他はない。
最後に、この新書は無罪判決が出される前の8月20日の発行である。
(こじま・みちお)