パリ・バスティーユ広場

ツアーでスイス旅行に行った時、モンブランをロープウェイで登る行程もあり、フランスのシャモニーに立ち寄った。7月14日だった。そう、フランス革命記念日。フランスの祝日。役所や郵便局、お店も休みのところが多かったけれど、スーパーやレストランは営業しているところもあった。
連れ合いに車いすを押してもらいながら、町をウロウロしたのだが、観光客で賑わう様子を眺めながら「国に革命記念日があるのは、カッコいいなあ」と思ったものだ。
20代の時にロシア革命について勉強したくなり、いろいろ本を読んだ。いちばん印象に残ったのは、京都の小児科医であった松田道夫が書いた『ロシアの革命』だった。印象に残ったのは、ロシア革命を成し遂げたレーニンの「ロシア社会民主労働党は、職業革命家が指導する前衛党であらねばならない」という党建設の考え方が、フランス革命時のジャコバン主義にあると書いてあったことだ。レーニンの『何をなすべきか』も『一歩前進二歩後退』も、そういう考えで書かれているのかと納得した。
フランス革命やジャコバン派、ロベスピエールには興味あった。関連した本は1989年の「フランス革命200周年」に、岩波ジュニア新書の『フランス革命:歴史における劇薬』を読んだけど、内容はほとんど忘れてしまった。
パリオリンピック→フランス→フランス革命。そこまでぼくは単純でない、オリンピックなんか大嫌い。ちょうど『平家物語』を読み終えたため、次は佐藤賢一の『小説フランス革命』(全12巻)でも読むかという乗り、その下調べとして中公新書『物語フランス革命』(安達正勝著・1100円)を読んだ。今回はこの『物語フランス革命』通して革命の流れやジャコバン派のこと、ロベスピエール、ナポレオンのことなどを紹介したい。
革命が勃発した1789年頃のフランスは、アメリカの独立戦争への肩入れもあり、国家財政が危機的な状態であった。人口の2%しかいない特権階級の僧侶や貴族には免税特権があり、納税義務を課せられていたブルジョワジーや農民など平民の不満が高まり、加えて不作による食料品の高騰も人々の暮らしを圧迫していたようだ。
1789年、5月5日に170年ぶりに三部会が開かれたのだが、ルイ16世は第三身分を議場に入れないようにしたために、第三身分の議員たちは「憲法制定まで解散しないことを誓った。(テニスコートの誓い)
革命の口火となったバスチーユ陥落は有名だが、当時政治犯は一人も居らず、7人の囚人(有価証券偽造犯4人、精神障害者2人、放蕩息子1人)だけであったという。
バスチーユ陥落から3か月後の10月5日、約8000人のパリの女性がパン不足を王様に何とかしてほしいとベルサイユ宮殿にデモをかけたのだった。(そういえば、ロシア革命も「パンと平和」を求めた女性のデモがきっかけ)。
「国家は王のもの」という意識のルイ16世には、平民が力を持つなんてとんでもないことだった。それに宮廷関係者も、何とか王権の回復を考えていたのだった。1791年6月20日、ルイ16世一家はベルギー(当時ベルギーは、マリーアントワネットの実家ハプスブルク家の領土)のモンメディへ逃亡を図ったが、ヴァレンヌという所で捕まってしまう。
この事件でルイ16世は一挙に国民の信用を失い、「王政を廃止せよ!」の声が全土に沸き起こった。しかし、革命指導者の1人であったパルナーブの尽力で王政は当面維持されるようになった。そして、9月3日。「1791年憲法」が採択され、フランスは立憲君主制国家になった。開明貴族や上層ブルジョワジーは、革命の終了を願ったのだった。
世の中の動きというのは、常に作用があれば反作用が生じる。当時ヨーロッパの国々は、ハプスブルク家をはじめとして王家が支配する国が多く、当然フランスに敵対してくる。その頃の立法議会は、穏健派のジロンド派が内閣を握っていた。1972年4月、オーストリアに宣戦を布告、対ヨーロッパ戦争に突入するのである。外国の軍隊と呼応する国内の反革命集団に対する警戒心から、革命闘争は先鋭化していく。
ルイ16世にしてみれば、共和制よりも王制のほうがいい。革命に敵対的な僧侶を外国に追放する法案と、地方から2万人の国民衛兵隊を集めパリに駐屯させる法案に拒否権を発動してしまう。
6月24日、パリの民衆がチュイルリー宮殿に乱入。7月プロシア軍がフランス国境に迫る中、国会は「祖国は危機にあり!」と宣言。マルセイユから来た連盟兵団が革命歌(ラ・マルセイエーズ)を唄いながらパリに入った。ここで余談。社会主義・共産主義・労働運動のシンボル赤旗は、このラ・マルセイエーズの歌詞から来ているのではなかいかと思う。
ついに8月10日、パリの民衆は連盟兵団と共にスイス人傭兵部隊と銃撃戦を展開、チュイルリー宮殿を制圧した。国会は、「王権の停止」を宣言。国王一家はタンブル塔に幽閉された。(つづく)