
2024年の都知事選、衆院選、米大統領選、兵庫県知事選など、大きな政治的流動が起こっています。そして、その結果を巡って様々な議論が交わされています。本稿では、それらの政治現象の過程的な分析ではなく、なぜトランプが選ばれたのか、石丸現象や国民民主党伸長の背景に何があるのか、SNSは社会のどういう問題を映し出しているのかなど、一連の政治現象に通底する問題とそのとらえ方について検討します。(12月中旬 請戸耕市)
●目次
【Ⅰ】衆院選の結果をどう見るか? ――「集合の狡智」
【Ⅱ】トランプ当選に対するサンダースの態度
【Ⅲ】翻って日本の左派リベラルの態度は?――嫌悪と冷笑
【Ⅳ】衆院選の争点は何だった?――経済
【Ⅴ】近代社会とは――社会のバラバラ化と共同性の希求
【Ⅵ】SNSが問題なのか?――潜在する感情のフタを開けた
【資料】2024年大統領選挙の結果に関するサンダースの声明 2024年11月6日
▼「トランプ的時代」
政治的節度のタガが外れた時代に入っている。極右、ポピュリスト、ファシスト、あるいはトリックスター[1]が政治の舞台に次々と踊り出してきている。
そういう中で、ドイツ、フランスで政権崩壊、韓国で戒厳令と大統領弾劾、シリアで政権崩壊……。プーチン・ロシアのウクライナ侵略戦争、ネタニヤフ・イスラエルのパレスチナ虐殺と中東侵略拡大、中国の台湾にたいする軍事重圧、アメリカの中国にたいする軍事重圧……。
たしかに何でもありだ。もっとも、節度のタガが外れてしまったからこそ、「まがいもの」も大量排出されるが、「ほんもの」も鍛え上げられてくる時代だ。
【Ⅰ】衆院選の結果をどう見るか? ――「集合の狡智」
自民に制裁を加え、大きく敗北させる。しかし、政権交代までは望まない。そこまで野党に期待も信頼もしていない。
結果、自民がまだ与党だが、少数与党に追い込まれるという絶妙な政治状況が現出した。
戦後長らく、法案・予算案は、霞が関官僚と自民党の密室の事前審査によって、国会提出以前にすべてが決まっていた。国会審議は事後のセレモニーに過ぎなかった。その帳がはらわれ、国民の眼前で国会審議が行われるという新しい風景が垣間見えた。
こういう構図を、誰かが仕組んだわけではもちろんない。右から左までの様々な人びとの思いや思惑が交錯した結果、「集合の狡智」[2]としてこうなった。
もちろん、事態が、取引、妥協、屈服、裏切りにいつ転がっても不思議ではない。何よりも最大の闇である財務省が全力で巻き返しをかけている。しかし、それでも、こういう構図をこじ開けたことの意味は小さくない。
▼事態を動かした主体は誰か?――人びとの投票行動
自民でもないし、国民民主でも、立民でも、共産でもない。右から左までの様々な人びとの投票行動が、その選択が、この結果をもたらした。
政党とは(政治家も)、社会に潜在的顕在的に存在する分断・軋轢・対立を、政治の場に反映する装置。つまり、政党は「反映」であって、実体は人びとの様々な意識と行動にある。当たり前のようだが、この見方が重要だ。
だから、ある政党や政治家の主張や動きを捉えて、「反動的だ」「打倒するぞ」と直情的に叫ぶのは的外れなのだ。その政党・政治家を支持した人びとがおり、その人びとにたいするわれわれの態度が問題なのだ。差別と腐敗にまみれた「愚民(ママ)」として切り捨てるのか、それとも、人びとがどういう思いでその選択をしたのかに向き合うのかだ。本当に打倒するつもりがあるなら、人びとの思いに向き合うべきだ。
この議論の流れに関連して、ここで、サンダース(米上院議員)の声明について一瞥したい。トランプを支持した人びとにたいするサンダースの態度には学ぶべきだ。
【Ⅱ】トランプ当選に対するサンダースの態度
▼本稿末尾に【資料】「2024年大統領選挙の結果に関するサンダースの声明」
レイシズムとミソジニーと移民排斥、シオニズムとキリスト教右派、個人崇拝と政治の私物化、私利私欲とデジタル・オリガルヒ[3]との癒着、アメリカ第一主義と中国敵視……。このようなトランプにたいして、サンダース(米上院議員)はもちろん、厳しく対決してきている。
しかし、にもかかわらず、そのトランプに多数の労働者が投票した結果にたいするサンダースの態度が極めてラディカルだ。曰く—-
「労働者階級working classを見捨てた民主党がその労働者階級から見捨てられても、驚くに値しない」
「アメリカ国民American peopleは怒り、変化を求めている。そして彼らは正しい」
まず、主体を「労働者階級」と明記している。「没落が進んだ中間層・小ブルジョア層」ではない。そういうステレオタイプな見方は事態を見据えたくないという逃げの態度だ。真っ当な労働者階級がやむにやまれずそういう選択をしたことに重大な真実があるのだ。
労働者は怒っている。事態を動かしたのは労働者の怒りなのだと正面から受け止めている。経済的な格差と生活苦の現実に怒っているのだと突き出している。そして、労働者の苦境と怨嗟の声に、一顧だにしない民主党主流を弾劾している。それは、アイデンティティ・ポリティクスに逃げ込む左派にたいする批判でもある。
そして、労働者が、その投票行動をもって、民主党を見捨てたことを「正しい」と言い切っている。声明のどこにも、労働者の選択を非難したり、嫌悪したり、冷笑したり、嘆いたりしているような言葉は見つからない。
◆「全員が主体」がキー概念
サンダースにしても、あるいはアメリカの社会的労働運動の潮流にしても、非常にラディカルなのは、その地域にいる全員を主体として措定し向き合っている、その姿勢である。
だから、職場と社会を獲得して、資本に大きく譲歩させるストライキを打つことができるし、こういう声明を発することもできるのだろう。
「全員が主体」――これがキー概念だ。本稿もその点を学び貫きたい。
今後の課題は恐らく、「第三極」=オルタナティブとしてどう登場していくかだろう。
▼それにしてもなぜトランプが支持されたのか?――「正しさ」への反発
多くの労働者は、経済をはじめアメリカ社会の現状に、強い不安や憤懣・閉塞を感じている。ところが、そういう労働者の思いや状態にたいして、民主党や主要メディアや左派リベラルはおよそ向き合おうとしない。人びとは打ち捨てられた状態なのだ。
それにたいして、トランプは、打ち捨てられた人びとに寄り添う振りをして、全く荒唐無稽だが「MAGA Make America Great Again 米国を再び偉大にする」とうそぶき、「中国からの輸入品には60%の関税をかける」とぶち上げた。
対するハリスの掲げる政策は、ⅰ.バイデンの継続であり、変化を期待できず、現状の閉塞を打破する力を全く感じられない。ⅱ.その上、労働者に寄り添わないハリスが、「多様性」「社会的正義」などと説教するのは、偽善・欺瞞に見える。ⅲ.さらに、「正しさ」を掲げてトランプの「でたらめさ」を攻撃する論客や主要メディアの批判は、労働者にとって、自分たちにたいする「上から目線」の攻撃にしか聞こえない。
だからこそ、トランプが叩かれれば叩かれるほど、「でたらめな野郎だけど、トランプがんばれ」となってしまうのだ。
そのように仕向けたのは誰か?明白に、民主党、マスメディア、左派リベラルなのだ。
◆アメリカから逃げ出す者も
サンダースのように労働者の怒りと不信に真っ向から向き合う者もいるが、他方で、「トランプを当選させるような人びとと同じ空気を吸いたくない」といって、アメリカからの脱出・移住を??たとえばニュージーランドとか??検討するリベラルも出てきているという嘆かわしい有様だ。
【Ⅲ】翻って日本の左翼の態度は?――嫌悪と冷笑
先の衆院選の結果に、いくつか目に付いたコメントを挙げてみよう。
○自治体の左派系市議(要旨抜粋)
「躍進した立憲も国民民主も、主張は自民党と大差ない」
「変化を求める人は投票に行かなかった」
「自民党vs.自民もどきでは何も変わらないだろう」
○元・政治党派代表・評論家(要旨抜粋)
「自民支持層が離反しただけ。つまり、自民党の自壊が事態の主な要因」「本来の争点は、安倍政治からの決別か否か、米国追従の軍事同盟のバージョンアップの是非、アベノミクスとの決別か否か。そういった本来の争点が争点にならなかった」「対決点がないまま、政党間の政治的駆け引きと政治の流動化だけがすすむ奇妙な事態である」
○元・自治労活動家(口頭発言)
「若い人たちの投票行動には、ファシズムの危険を感じる」
▼「正しさ」に立てこもる姿勢
残念ながらサンダースのラディカルさとは大きく違うようだ。
事態を極めて冷笑的に見ている。人びとの大きなうねりを全く感じていない。右であれ左であれ、人びとの様々な思いと思惑が投票行動によって表され、それが事態を動かしたと見ていない。
上に挙げた左翼の人びとの念頭には、自分たちが信念してきた「正しさ」があり、その「正しさ」に思い描いたように反応する「人民」像がある。それが、自分たちの主観的な思い込みであり、現実は大きく違うことに気づこうとしていない。
民衆の生きた現実を正面から見ないばかりか、自分たちの「正しさ」の中に立てこもって、自民や維新や国民民主などに投票する人びとは「どうしようもない人びと」という嫌悪の眼差しで見ている。このような眼差し、自分たちの「正しさ」の中に立てこもる姿勢こそが問題なのだ。(【Ⅴ】で再論)
【Ⅳ】衆院選の争点は何だった?――経済
争点は一にも二にも経済!もちろん、裏金問題も安保問題も重大だ。しかし、もっとも喫緊の争点は、人びとの生活苦の訴えに、どういう経済対策を打ち出すかということだった。だから、人びと、とくに多くの若者が選択したのは、端的に、経済対策を前面に出した政党だった。
▼「失われた30年」
経済問題とは、改めて、どういうことだったか?
① 直接的には、何よりも長らく実質賃金が上がっていないことだ。そして、意味のない長時間労働を強いられていることだ。そこに円安や資源高騰に伴うインフレが加わって、実質賃金が大きく目減り・労働条件もさらに悪化していることだ。
② その直接的な元凶は大企業だ。ⅰ.賃上げをせずに自己資本を積み上げてきたこと、ⅱ.非正規雇用を拡大し、人件費を抑制してきたこと、ⅲ.下請け企業に対して不当な要求をする下請けいじめを構造化させてきたこと。ⅳ.その結果、大企業の内部には、利益余剰金だけが膨大に積み上げられ、それに安住し、イノベーションの努力をサボタージュしてきたことだ。
③ その政策的な原因。小泉から安倍の過程で推進された「構造改革」、「市場に任せれば、経済は成長する」という新自由主義イデオロギーだ。「成長戦略」などと銘打っていたが、全く真逆で、長期停滞を決定的に推し進めた愚策だった。ⅰ.そもそも新自由主義の後ろ盾をなす主流派経済学の理論、その核心をなす「市場均衡論」は、イノベーションを生まない静態的な経済なのだ。ⅱ.その上、デフレ下に、主要30カ国中でもダントツの緊縮財政を続け、イノベーションの芽を摘み取ってきた。
④ その歴史的な原因。資本主義が概ね50年単位の一大構造変動=イノベーションに差し掛かっていることだ。「国民国家・国民経済=集権型システム」が機能不全に陥り、「都市・地域のグローカル・ネットワーク=分権型システム」に推転しようとしている。ところが、このような巨視的な視点で考えている政策当局者、主流の研究者が皆無なのだ。
付言すれば、想起したいのは、マルクスも、シュンペーター[4]も、「資本主義が失敗して破綻する」とは見ていなかったことだ。資本主義は「総体性」になり・「成功」して、社会主義を生み出していくと把握していた。
以上の①~④が、長期停滞状況で、世界の趨勢から大きく脱落している「ダメダメの日本」「未来のない・希望のない社会」になっている原因の列挙・素描だ。
▼若い世代のいら立ち――「希望のない社会」でいいのか?
若者の意識や行動の背景にあるのはこういう経済状況だろう。
大事なことは、単に、「賃金が安い」と文句を言っているだけではないのだ。
まだ大戦争や大恐慌に見舞われているわけでもない??もちろん世界中で起こっており、日本でも災害は頻発している??のに、社会が、静かに、しかし確実に崩れ壊れて縮んで行っているという感覚だ。
若者が訴えているのは、そういう「ダメダメの日本」「未来のない・希望のない社会」でいいのかという問いであり、そう感じないでいられる・現状に安住していられる人びとに、「おかしい」と思わないのか、といら立ちっているのだ。
いわゆる「古い枠組み」だ。左だろうが右だろうが、大企業だろうが中小零細だろうが、政治・経済・社会の全般にわたって絡みついている、何の創造性も革新性もない「牢固とした旧弊」だ。
だから、若い世代からすれば、こういう「未来のない社会」を「おかしい」と感じていない層が、日本の変革・イノベーションを妨害していると感じおり、それをざっくりと「既得権益層」として、そういう層を一掃してくれる政治を求めている。
そういう感情は大いに理解できる。と同時に、本当に何が問題なのかを分かりやすい絵図にする必要があるということだ。
【Ⅴ】近代社会とは――社会のバラバラ化と共同性の希求
ところでSNS[5]の功罪が大いに議論になっている。しかし問題はSNSの機能や役割にあるのではなく、そもそも社会が問題であり、それがSNSでどう表れているかが問題だと思う。そこで、やや迂遠な話になるが、そもそも近代社会とは、という話をしたい。
◆近代社会の特徴
近代社会の大きな特徴は、次のように端的にいうことができるだろう。
「本質的に共同的だが、バラバラだ」「バラバラだが、共同性を希求している」。
人類史のほとんどの期間、人間は共同体に包まれて存在してきた。近代化とは、そういう伝統的共同体が解体し、人びとがバラバラの個人(アトム化ともいう)として放り出されていくことだった。それは、人間が、伝統的共同体を「卒業」して、はじめて「自立した人格」として歩み始めるという意味でもあった。
資本主義が進展すればするほど、各種の共同体が趨勢的には解体され、人びとのバラバラ化が進む。かつて、「世界が二大階級に整序される」という『共産党宣言』の見通しもあったが、それは、近代の入り口という時代性に制約された見方として整理した方がいいだろう。あるいはまた、20世紀の重厚長大な製造業の労働編成によって産み出された、労働者の力強い団結形態もあったが、それもまた時代に規定されたものだっただろう。いまやデジタル化とグローバル化と金融化の中で、共同体的なものの欠片まで破壊され、バラバラ化が徹底されていく。進み方も加速度的だ。だから、親世代と子世代どころか、年齢が少し違うだけでも、実態も実感も違ってくるのは当然なのだ。
◆生きづらさの構造――「社会のバラバラ化と共同性の希求」というアンビバレント
今見た近代社会の特徴を、もう少し原理的に見ると次のように整理できるだろう。
(イ) 原初以来、人間は、労働を通して、自らの個別性と普遍性を矛盾的に発展させていく。
(ロ) その発展の中で、伝統的共同体を崩壊させ・喪失し、人間が、バラバラの私的な諸個人として市民社会に放り出されていく。
(ハ) 諸個人はバラバラだが、そのバラバラ性の背後で、自らの他者として形成された「資本」の運動に媒介されて協働している。人間の協働性・共同性の力が、資本の運動に吸収され・資本の力として発揮されている。
(二) 他方で、バラバラな諸個人同士が、日々商品交換を行い、そのことを通して互いに社会的に承認し合う行為を繰り返している。実は、その行為の繰り返しの中で、共同性の法的擬制としての「国家」が不断に生成されている。
以上(イ)(ロ)(ハ)(二)が、マルクスの「人類史観」および「資本論」「国家論」のエッセンスだ。
ここで確信できることは、人間同士がどんなに分断されようが対立してようが、人間は本質的かつ媒介的に共同的存在・社会的存在だということだ。しかしまた「媒介的」だ。「媒介的」という用語でいいたいのは、人間自身の力である共同的社会的な力が、自分から離れて・自分のものとは感じられず・むしろ共同性・社会性が自分に対立する「資本」や「国家」という転倒的な形で、自分に向かってきているという意味だ。
つまり、現実の意識の表面では、バラバラなのだ。しかし、背後で、資本や国家という他者に奪い取られる形で協働・共同している。だから、人びとは、そのバラバラ性に生きづらさを感じ、共同性を希求している。つまり、「社会のバラバラ化と共同性の希求」という矛盾的でアンビバレント(二律背反)な構造が、現代社会の基本問題としてあるのだ。
▼シミュラークルとポピュリズム・ファシズム
ようやく話は現実的現在的なところに戻ってきた。
つまり、「社会のバラバラ化と共同性の希求」の中で、人びとは、生きづらさを感じ、部分的あるいは疑似的・擬制的な共同性を探し求めている。それを求めるのは、本性的な行為だ。それが、同じ趣向のサークルであったり、アイドルの推し活であったり、宗教であったり、そして労働運動・社会運動などであるわけだ。
そして、ある種の政治傾向や不安・憤懣や憎悪感情が、一定の人びとの間で共有されることも起こる。その傾向や感情が、ある「表象的な人格=シミュラークル[6]」によって吸収され、そのシミュラークルを通して政治的に表現され、それを通して人びとが疑似的な共同性を感じられるとすれば、それが、ポピュリズムとして独り歩きしだすのだ。そのシミュラークルとは、いうまでもなく、トランプであり、橋下、石丸、斎藤などだ。
そして、ここに、共同体主義、ネイション(ナショナリズム)、コーポラティズム(集団主義)などのイデオロギーが標榜され、さらに、仮想的な敵を作って分断的・排外的に攻撃することをもって、疑似的・擬制的な共同性の高揚を図るという手法がとられ、さらに、現状を打破するという訴えが疑似革命性を帯びてきたとき、それは、ファシズムの傾向を示していくだろう。
◆あれはファシズムか?
ポピュリズムとファシズムは、このように把握できると考えるが、問題なのは、「だからやっぱりあれはファシズムだ」などと言って異物に触れたかのようにおののいている態度だ。
バラバラ化の進行が経済危機によってますます強まり、人びとが、生きづらさを感じている中で、共同性を希求している。ファシズムだろうが何だろうが、このことに向き合うことが決定的に大事ではないか。見てきたように、シミュラークルはあくまでも「表象」であって、実体は苦悩せる人びとなのだ。上の【Ⅲ】でも述べたように、民衆の生きた現実を正面から見ないばかりか、自分たちの「正しさ」の中に立てこもって、トランプや維新その他を支持する人びとを「どうしようもない人びと」という嫌悪の眼差しで見ている姿勢こそが問題だ。アメリカで進行したことは、このような「正しさ」に立てこもる姿勢が、人びとをトランプ的ポピュリズムに追いやったことだ。他方で、20年代ドイツの教訓は、このような「正しさ」に立てこもる態度を土壌にして、スターリン主義が生成されていったということだ。
【Ⅵ】SNSが問題なのか?――潜在する感情のフタを開けた
見たように、人びとは、バラバラ化しながら、やはり、共同性を希求している。そういう世界中の人びとがSNSに流れ込み、様々な趣向や感情でつながり、交流している。
だから、SNSが何もないところから何かを生み出しているのでは当然ない。ただSNS以前には潜在的であった傾向・感情、分断・軋轢・対立を、SNSが顕在化させているということは確かだ。
だから、上で見た「社会のバラバラ化と共同性の希求」という現代社会の基調的問題の把握が前提的にないところで議論しても埒が明かないのだ。
そして、バラバラ化が進行する中で、人びとの抱く不安・憤懣や共同性の希求を、SNS上で、「シミュラークル的な人格」が吸収したとき、奇怪なモンスターとして暴れまわる社会現象になるのだ。
たしかにSNSは、潜在する感情のフタ、政治的節度のタガを外した。では、フタをしておけばよかったのか。それが社会の問題に根ざす感情や分断なのだから、むしろ顕在化したからこそ、それに向き合い格闘する機会が訪れているということだ。
▼SNSと投票行動
選挙プランナーの藤川新之助[7]によれば、従来の選挙は、地上戦(チラシ配りと個別訪問)が5割以上を占めたが、これからは、SNSが5割以上になるだろうと。そういう時代が今年の都議選を転機に始まった。仕掛けた藤川自身も、その「成功」に驚いている。
そのことは、世代別の投票率や投票動向にも如実に表れている。
従来は、組織・団体・共同体のつながりの強い人びとが投票に行った。それは、業界団体、宗教団体、労働組合などだった。そういうつながりが弱いほど、投票に行かなかった。
しかし、今回の衆院選は、組織・団体・共同体のつながりの強い人びとが、投票をしなかった。組織・団体・共同体から気持ちが離れたからだ。
逆に、従来の組織票とは無縁で、そこから外れていた人びとが、SNSなどを契機に呼び覚まされ、投票行動に動いた。
だから、「若い人びとの投票率が」などという年配者の泣き節は、今や取り越し苦労なのだ。
▼マスメディアとSNS
「〝オールドメディア〟は信じない。SNSを見て考えている」。逆に「SNSが一方的な意見やフェイクを流して、大衆がそれに乗せられている」。こういう議論の応酬について考えてみたい。
◆マスメディアの問題性
マスメディアに様々な問題があることは間違いない。
まず、マスメディアの情報伝達は、一方向的であることだ。マスメディアが情報を支配し、取捨選択し、加工し、発信をコントロールしている。受け手である視聴者はそれを受動的に受け取る以外にない関係にある。
対してSNSの情報は、双方向的で、主体的・能動的だと、若い世代にとっては感じられるのだ。誰でも自分の表現したいことを全世界に向かって瞬時に発信することができる。また、情報を自分で探して選んで、取捨することができるという点で、主体的・能動的だともいえる。もちろん、そこには、プラットフォーマー[8]によるビジネスモデルがあり、閲覧者・検索者の趣向や傾向をビッグデータとして集めて、アルゴリズムによって誘導しているという問題はあるから、手放しで「主体的・能動的」などとはいえない。とはいえ、デジタルネイティブ[9]にとって、このようなSNS世界が当たり前なのだ。
◆正義と癒着と
さらに、マスメディアの問題性は、今見たような機能上の問題にとどまらない。
一方で正義や善意を標榜しながら、実際のところは、権力・資本となれ合い・癒着していることだ。いや、権力そのものになっている。
また、一方で、ある種の「正しさ」を「上から目線」で説教しながら、人びとの不安・憤懣・焦燥に向き合わないし、労働者に寄り添わない姿勢だ。あるいは、現状の閉塞を打破したいという気概が全く感じられない、現状への維持・安住の姿勢だ。
しかも、にもかかわらず、SNSで出回るものも含め、報道ジャンルの情報の出どころは、結局、元をただせば、99%がマスメディアからなのだ。
さらに、ここが一番の問題だが、左派リベラルの人びとの情報や言説が、結局、ほとんどマスメディアの「おまとめ」以上を出ていないことだ。原発問題でも斎藤知事問題でも、真実の追求は99%、マスメディアにお任せになっていないだろうか。
アメリカでも韓国でも、左派の運動体は、もっと独自の取材と媒体をもって活動している。
▼なぜフェイクがまかり通るのか?
フェイクを信じる人びとに向き合い、その心理に分け入らないといけない。それは、(イ)マスメディアや左派・リベラルの言葉が、自分たちの心境・苦境に向き合っていない。心に響かない「上から目線」の「正しさ」だ。(ロ)現状にたいする憤懣がない。現状を打破する変革性も感じられない。(ハ)自分を排除する排他性の匂いがする。
それにたいして、SNS上では、シミュラークル的な人格が、あることないことではあるが、?自分たちの心境を代弁し、自分たちの目線でしゃべっている。?フェイクであれ現状打破を叫んでいる。(二)そこに疑似的で歪められた共同性を幻想できる。幻想だが…。
さて、どっちを選ぶだろうか?
◆ファクトチェック
フェイクへの対処は、(1)まずは、生きた現実によるファクトチェックだろう。アメリカでも、韓国でも、そういう活動がSNS上で活発に行われている。
しかし、フェイクであることを暴いたからと言って、実は、上で見た(イ)(ロ)(ハ)が解決するわけではないのだ。
◆今こそ「大きな物語」を
かつて1980年代に、リオタール[10]が「大きな物語は終焉した」と提起し大きな影響を与えた。「大きな物語」とは、マルクス主義が標榜してきた「歴史発展の必然法則」などを指しており、スターリン主義の問題と重ねて、「大きな物語」を批判し、そういうものはもはや通用しないという宣明だった。確かにその後、ソ連圏は崩壊した。そして、「大きな物語」に対する不信と拒絶が蔓延し漂流するアパシーの時代、ポストモダンが続いた。
たしかにマルクス主義は人間を主体としない「法則の物語」だった。しかし、マルクス主義は、それを標榜した人びとの考えではあっても、マルクスの理論ではなかった。
人間の存在とは、一人ひとりが主体的自立的な存在であると同時に、社会的共同的な存在である。その個別性と普遍性の矛盾性が究極へと行きついているのが近代社会ということだが、その矛盾性が、人間の苦悩・生きづらさとして人間自身に自覚されているのだ。
だからこそ、(2)生きづらさの構造を分かりやすい絵図として指し示すことだ。歴史・社会・経済・政治と、そして、人びとの苦悩や生きづらさといったことの全体を、人間の存在に根ざしてつかみ直し、全人間解放の展望を示す「大きな物語」として描くことだ。古来、人間は、共同性を希求して様々な神々を生み出して来たけれど、いまこそ、グローバルにかつローカルに、「大きな物語」を提起するときなのだ。
◆「大きな物語」×社会的労働運動の相乗
もちろん、一朝一夕には行かないだろう。
しかし、経済・社会・国家のあり方が、「集権型システムから分権型システムへ」と推転しようとしている今こそ、(3)ⅰ.全員を主体とする社会的労働運動をはじめとする社会運動の推進と、ⅱ.全人間解放の展望を示す「大きな物語」の提起とが相乗していくならば、より高次のグローカルな共同性が産出・形成していくことになるだろう。
以上の(1)(2)(3)が、(イ)(ロ)(ハ)にたいする処方箋であるともに、本稿の結論でもあるだろう。(了)
【資料】2024年大統領選挙の結果に関するサンダースの声明 2024年11月6日
バーリントン(バージニア州) バーニー・サンダース上院議員(バージニア州選出)は本日、2024年大統領選挙の結果を受け、以下の声明を発表した:
労働者階級を見捨ててきた民主党が、労働者階級から見放されていることに気づいても、大きな驚きはないはずだ。最初は白人の労働者階級だったが、今ではラテン系や黒人の労働者階級も同様だ。民主党指導部は現状を擁護しているが、アメリカ国民は怒り、変化を求めている。そして彼らは正しい。
今日、大金持ちが驚異的な成功を収めている一方で、アメリカ人の60%はその日暮らしの生活をしており、所得と富の不平等が拡大している。所得と富の格差はかつてないほど拡大している。信じられないことに、平均的なアメリカ人労働者のインフレを考慮した実質的な週給は、50年前よりも低くなっている。
今日、テクノロジーと労働者の生産性は爆発的に向上しているにもかかわらず、多くの若者は両親よりも悪い生活水準を送ることになるだろう。そして彼らの多くは、人工知能とロボット工学が悪い状況をさらに悪化させるのではないかと心配している。
今日、国民一人当たりの支出は他国よりはるかに多いにもかかわらず、わが国は人権としてすべての人に医療を保障していない唯一の裕福な国のままであり、処方薬には世界で最も高い価格を支払っている。主要国の中で唯一、有給の家族・医療休暇すら保証できない。
今日、アメリカ人の大多数が反対しているにもかかわらず、私たちは、過激派ネタニヤフ政権のパレスチナ人に対する全面戦争に、何十億ドルもの資金を提供し続けている。大量の栄養失調と何千人もの子どもたちの飢餓という恐ろしい人道的災害をもたらした。
民主党を牛耳る大金持ちや高給取りのコンサルタントは、この悲惨な選挙戦から本当の教訓を学ぶのだろうか?彼らは、数千万人のアメリカ人が経験している政治的疎外感を理解するのだろうか?経済的・政治的に大きな力を持ち、ますます強大化するオリガルヒ(※ロシアの財閥、転じてイーロン・マスクなどを指す)に対抗するためのアイデアはあるのだろうか?おそらくないだろう。
草の根民主主義と経済的正義に関心を持つ私たちは、今後数週間以内に、非常に真剣な政治的議論をする必要がある。ご期待ください。
出典:レーバーネット/ Bernie Sanders X
*誤訳は引用者が訂正した。※は引用者の補足。
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【文末註】
[1] 神話や物語の中で、神や自然の秩序を破ることで物語を展開する者。
[2] ヘーゲル用語を筆者が変形。ヘーゲルの言葉は「理性の狡智」。個々人の様々な営みを通して、世界史の過程に理性が貫かれていくという意味。もっとも、ヘーゲルの問題点は、理性の自己展開に、個々人の営みが回収・解消され、矛盾が解決されるとする点。そこを批判・転倒させたのマルクスであり、労働の矛盾が解決されない矛盾として総体性にまで至るという矛盾論を展開したのが『資本論』。なお、「理性の狡智」に近い概念として、スミスの「見えざる手」、現代的な理論としては「複雑系」。
[3] イーロン・マスクなど、テック系の富豪への揶揄。オリガルヒは、そもそもはロシアの新興財閥・政商。
[4] 20世紀前半に活躍した経済学者。主著に『資本主義・社会主義・民主主義』など。近著の中野剛志『入門シュンペーター』がおもしろい。
[5] Social Networking Service。X(旧Twitter)、Facebook、instagram、YouTube、TikTokなどの総称。
[6] ボードリヤールの用語。シミュレーションと同語源。ここでは、実体である人びとの意識によって生み出されながら、人びとの意識を吸収し体現して独り歩きする表象的な人格。村澤真保呂『都市を終わらせる』は、橋下現象をシミュラークル論で論じている。
[7] 1953年大阪市生まれ。高校・大学では民族派右翼の日本学生同盟に参加。91年に自民党から大阪市会議員に初当選。自民党を離党し小沢一郎の新生党に参加。96年衆院選で大阪6区から旧民主党公認で立候補も落選。その後、みんなの党、減税日本などの選挙に関わり、2017年から東京維新の会の事務局長。22年に「藤川選挙戦略研究所」を設立。24年7月都知事選で石丸陣営の選対事務局長、9月自民党総裁選で高市陣営を支援、12月兵庫県知事選でN国党の立花孝志と共闘。 出典:wikipedia
[8] プラットフォーマーとは、インターネット上で基盤となるサービスやシステムを提供する事業者。Googleとか、Facebookとか、X(旧Twitter)のことだ。
[9] 生まれたときからスマホなどのデジタル機器に慣れ親しんでいる世代。
[10] ポストモダンの旗手とよばれたフランスの哲学者。
