マルクスの「類的存在」「類的本質」という人間の捉え方には感動したものです。この素晴らしい思想を革共同(以下、NCと表記)も他派も、なぜ深化させ拡げられなかったのか。

1.思想について
Aさんが「NCの敗北は思想的敗北だ」と言い、Bさんは「NCはマルクス主義ではなかった」と言いました。Bさんのこの言葉を私は共有していたのですが、不覚にも討論を続行する機会を逃してしまいました。
思えば、ソ連と東欧各国共産党の崩壊は、何やかやといっても、スターリン主義の瓦解といっても、社会党を先頭に私たちNCと他派も多大なる影響を被って、マルクス思想への確信を失ってしまっていたというのが本当なのではないでしょうか。
スターリン主義といえども、その存在と物質力は巨大だった。「社会主義」の基盤をなくした社会党・総評、国労などは、確信の根源を絶たれた。今現在もそうではないだろうか。
限られた私の経験ですが、今の労組のない労働現場の労働者達は、見るからに何かに耐えているように見えます。以前、あるNCのメンバーが自分の党としての責任を棚に上げて「労働者階級なんて、どこにおるんや~!」と怒声をあげて嘯きました。
でも、階級はいなくても生身の労働者はいます。彼らは、希望を持てるような指針や指標がないまま、あるいは、階級意識を深化させられないまま苦闘しているように見えます。自らの出口を探せていない状態か。そこには覆いかぶさっている資本の力があります。彼らが独力で突破するのは難しい。問題は、労組だけでなく「希望」だと思います。
私が、希望や思想を語るときの基礎はリアリズムです。戦争、差別、貧困その他、あらゆることが資本主義経済の影響で起きています。核戦争の超現実性にみられるごとく、すさまじい世界を人間は造ってしまいました。ウクライナ、ガザなど、あまりにも否定的現状なので絶望してもおかしくないほどです。絶望を直視できてこそ、絶望を乗り越える希望は見えてくるのだと思います。「希望と絶望は隣り合わせ」と誰かが言いました。
世界各地での戦争、飢餓、貧困、難民・移民、気候変動など、マルクスやレーニンの時代と比べて大幅に深刻な状況です。彼らの時代には核兵器はなかったし、使われることもなかった。安易な希望を受け付けないほど、現実はすさまじい。

2.人こそ希望
思うに、この世界に生きる人こそが、努力と闘いによって希望を見いだせる。歴史をみれば、国家の権力者が危機に陥った時の「脱出策」は戦争である。戦争をぶっぱなすことで、すべてをチャラにして問題を「解決」する。国民・民衆が生きようが死のうが責任をとらない。そういう時代がまた目の前に来ている。戦争前夜です。京大教授の駒込武さんは「私たちの気づかないところで、戦争準備がとてつもない勢いで進んでいる。『何をすべきか』日本本土の人間に問われている」と警鐘を鳴らしている。
資本主義(主要に)は、労働者・農民・漁民・市民の生活と人生と生命と幸せを破壊する。
衆議院選挙の争点は「裏金」でしたが、もうひとつの隠された争点がありました。日本がもう一度戦争をする「戦争の危機」です。自民・公明の「国民を守る」という言葉がいかにまやかしであるかを見抜いて、自公解散・解消に追い込むことが、戦争を止める当面の重要な闘いです。
この12月の韓国階級闘争を教訓に、日本でも大々的な階級闘争・反戦闘争を復権させよう。資本主義は当たり前の、永遠の社会ではない。その非人間性と反人間性を洞察して、資本主義を乗り越える社会を目指そう。マルクスの資本主義への怒りの原点を現代に生かして、根底的資本主義批判を明らかにしよう。
たぶんそれは、難解な長大論文ではなく、意外と、多くの人にわかりやすいシンプルな精神やスローガンとして表されているか、表されるのではないだろうか。(2024年12月中旬記)