
ああ、花のパリ。フランス、芸術の都パリ…。優雅な街と思っていたパリ。ところが、フランス革命のことを調べてみると、パリは血塗られた街をあらためて認識した。
王妃マリーアントワネットや、ルイ14世について書かれた本は多いけど、ルイ16世に関する本は少ない。凡庸な人で、錠前作りと狩猟が趣味であったと書いてある本が多い。(近年の研究では、聡明な人物であったという評価がなされているらしい)。機械いじりが好きであったのは事実だそうだ。自らもそれによって処刑されたギロチンの「三角形の斜め刃」に発案したのは、ルイ16世だった。
欧米人にとってハラキリ(切腹)は、残酷な処刑方法だが、私たち日本人にはギロチンこそ残酷に思える。しかし、ギロチンこそフランス革命の精神である人道的、平等な処刑方法として発明されたのである。
フランス革命までは、身分によって処刑方法が違っており、身分の高い人は首切り、身分の低い人は「車裂きの刑」(死刑囚の身体のあちこちを鉄の棒で打ち砕き、馬車の車輪の上で死ぬまで放置)とか、「八つ裂きの刑」(四肢を四頭の馬に引かせ、引きちぎった)、そういう残酷な方法だった。その点ギロチンは、苦痛なく一瞬で終わり、どの犯罪人でもギロチンで処刑するので平等だというわけだ。
1792年9月に召集された国会は「国民公会」と呼ばれた。ロベスピエール、ダントン、マラーなど「山岳派」のメンバーが多くいる「国民公会」は、もっとも革命的な議会であった。もちろん、それまでの革命をけん引してきた「ジロンド派」が主導権を握ってはいたものの、「ジャコバン派」が優位になっていく。ジャコバン派はルイ16世の処刑を求め、ジロンド派はそれを止めようとした。
ルイ16世の裁判は12月11日に始まった。弁護人なしの裁判だった。午後2時頃、タンブル塔から国民公会の議場に連れてこられ、午後5時頃まで尋問が続いたという。12月26日に2度目の尋問が行われた。この時はドゥセーズ他2人の弁護士がついた。ドゥセーズは、「憲法(1791年)で国王に不可侵性が保証されているのだから、国王として行ったことを追及することは法律論上不可能であり、裁判自体が成立しない」と主張した。
しかし、革命家からすれば、国王は口では革命を支持すると言いつつ、国民を欺いていることになる国王であった。そのことが、まさに罪なのだという論理になる。
1793年1月15日、裁判の審理が終わった。次の3点が議決にかけられた。
「国王は有罪か?」~有罪とされた。「国会の決定に国民の裁可を求めるか?」~否決。「どんな刑にすべきか?」~死刑(これについてはかなり揉めた)。
1793年1月21日、ルイ16世はルイ・カペー(国王でないということ)として革命広場に連行された。そして死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンによってギロチンにかけられた。
サンソンは、4代目の死刑執行人だった。医者の仕事もしていたらしく、経済的には豊かな生活を営んでいたらしい。処刑人ということで人々に忌み嫌われ、差別されていた。シャルル・アンリは信仰心の篤いクリスチャンで、かつ立憲君主主義者として国王を深く敬愛をしていたため、何とか処刑を回避したいと苦しんだ。
さて、王妃マリーアントワネットの処遇はどうなったのか? ルイ16世の処刑直後から、マリーアントワネットも裁判にかけるべきだという声はあった。大きな意見にはならなかったようだが。しかし、夏ごろにマリーアントワネットの恋人のフェルセンがパリに攻めてきて、救出に来るのではないかとの判断が革命側になされた。
マリーアントワネットは、タンブル塔からコンシェルジェリという所に移されていたが、国民公会は1793年8月1日に革命裁判所に送付することを決議した。
10月14日から16日のまで裁判は行われ、王妃としての罪のほかに息子といかがわしい行為も行なっていたということまで非難された。16日午前4時過ぎに、死刑の判決が下された。
当時は判決確定、即執行だった。義妹のエリザベトに遺書を書いた後、処刑台にのぼったマリーアントワネットの姿は、38歳とは思えないほど老婆のように老けこみ、やつれ果てていたという。本当かどうか知らないけど、「さようなら、子どもたち。あなたたちのお父様のところに行きます」が、最後の言葉だったそうだ。
フランス革命は、「自由・平等・人権」の獲得を目指し、たたかわれた。しかし、女性の人権については全く取り組まれていなかった。でも、フランス革命の時、綺羅星のように活躍した女性がいたことも歴史的事実である。
ロシアのソフィア・ベロフスカや、レーニンの暗殺を仕掛けたファニー・カプランのような女性も出現している。歴史の激動時は、よく似た人物が現れるのだろうか。フランス革命時の女性の活躍についても、書いていきたい。(つづく/こじま・みちお)
