
フランスの作家ビクトル・ユーゴ―の大長編小説『レ・ミゼラブル』。第2巻「コゼット」の冒頭部分は、ワーテルローの戦いの記述から始まっている。フランス軍とイギリス軍がどういう戦いをしたのかを、微に入り細を穿つ書き方で詳しく描写しているのだ。
そのワーテルローの章の最後に、死体が累々と横たわっている戦場跡地を一人の男がさまよっている。この男は、死体から金目のものを盗むためにふらついているだけなのである。男は、横たわっているフランス軍将校から勲章を盗もうとするのだが、死んでいると思っていた将校が男に声をかけ、結果としてフランス軍将校は一命をとりとめる。
盗みを働いていたのは、テナルディ軍曹。助けられたのは、ポンメルシィ大佐だった。テナルディは、コゼットをこき使っていた宿屋の主人。ポンメルシィ大佐は、コゼットと結ばれるマリウスのお父さんだった。
ユーゴがレ・ミゼラブルで書いているように、ワーテルローの戦いはフランス軍、ナポレオンの完全な敗北に終わり、ナポレオンはセントヘレナ島へ流され、51年の生涯をかの地で閉じたのだった。「今さらながらのフランス革命」の締めくくりとしてナポレオンの人生を述べる。
ナポレオンは、1769年8月15日、地中海のコルシカ島で生まれた。コルシカ島は、元はイタリア語圏のジェノバ共和国の支配下にあったが、ナポレオンが生まれる前年の1768年にフランスに譲渡されていた。
ナポレオンのボナパルト家は一応貴族だったが、爵位もない下級貴族に過ぎなかった。ナポレオンは、イタリア語で育てられ、奨学金を得てフランスに来た時には、まったくフランス語が出来ずに苦労したらしい。
9歳の時にパリ近くのブリエンヌ・ル・シャトー陸軍幼年学校に入学、15歳になるとパリのシャン・ド・マルス陸軍士官学校に進学し、16歳で砲兵少尉に任官した。少尉になってから、フランス各地の兵舎を転々とする日々を何年か過ごす。20歳になる直前にフランス革命が勃発した。チュイルリー宮殿襲撃事件(8月10日)も遭遇している。
ナポレオンは、いったんコルシカに帰るが、コルシカにいたパオリ将軍という人物とそりが合わずに1793年6月コルシカを追放されてしまう。この頃フランスは、「6月危機」と言われる状況に陥っていた。対フランス大同盟の国々(イギリス・オーストリア・ロシアなど)に囲まれ各地で戦争をしていた。国内では「ヴァンデーの農民反乱」も続いていた。
そういう状況の7月、ツーロン要塞(レ・ミゼラブルの主人公ジャンバルジャンがいた監獄のあった港町)で王党派がジャコバン派を追放する事件が起こった。王党派はツーロン港をおさえ、イギリスとスペインの支援を得ることになった。支援のためにイギリスとスペインの船が続々とツーロン港に入っていく。
そのツーロン要塞攻撃を任されたのが、砲兵隊長のナポレオンだった。ナポレオンは、ツーロン要塞の対岸のエギュイエット岬から砲弾を集中させ、ツーロン港内のイギリス、スペインの艦隊を港外に撤退させたのだった。軍事的才能が認められる作戦だった。
ナポレオンは本当に運のいい人だった。元々はジャコバンクラブの一員だったし、ロベスピエールとも親交があったのでテミドールのクーデターで逮捕されたりもしたが、10日ほどで釈放され軍人として復帰する。そしてパリでの王党派の反乱軍をパリの街中で大砲をぶちまかして鎮圧した。
それ以降、イタリア遠征で勝利しライン河左岸の領土を勝ち取ったのだが、エジプト遠征中、その領土を取り返されたと知ったナポレオンは、フランスへ帰国し武力で議会を制圧。ブリュメール(露月)18日の政変は成功した。そして生まれたのが「共和国第8年憲法」だ。別名「1799年憲法」。憲法が発布されたその日、ナポレオンは高らかに宣言した。「革命は終わった」と。
ブルボン王朝を倒したフランス革命は、ボナパルチズムを生み落として幕を閉じた。ナポレオンは第一統領から、1804年には皇帝へとのぼりつめて行く。ナポレオンの皇帝載冠式は、パリのノートルダム寺院で1804年12月2日挙行された。
皇帝になるまでにナポレオンが成し遂げた業績を述べてみると…。①「宗教協約(コンコルダ)」。1801年7月、ローマ教皇と「宗教協約」を結び和解した。国民の宗教心に寄り添い、宗教によって社会は安定すると判断した。カソリック・プロテスタント・ユダヤ教も公認された。②「アミアンの和約」1802年3月、イギリスと「アミアンの和約」を締結し、10年ぶりにヨーロッパに平和をもたらした。③「ナポレオン法典」1804年3月に「フラン人の民法典」として公布され、1807年「ナポレオン法典」と改称された。
フランス革命とナポレオン時代を通してフランスは、資本主義的国民国家の原型を作った。国民軍を持ち領土を確定させ、国民教育を施す。私有権を認め、税金を払う義務を負う国民を支配する国家だ。国内の諸階級の矛盾を抱えたまま、諸外国との軋轢が解消されることもなく歴史は進んで来た。
マルクスが言うように本来の人間解放のためには、国籍のない社会を目指さなければならないのだろう。難しいけれどね。
*力量不足で書けなかったこと。トラファルガ―の海戦、大陸閉鎖、ロシア遠征。特にロシア遠征は48万人もの兵士を動員しモスクワへ攻め込んでいったものの、47万人が戦死するという大敗北だった。(こじま・みちお/つづく)
