山本昭浩さん

市民と市民運動~回顧と展望
市民運動(市民デモHYОGО)の交流会で「市民と市民運動」をテーマにする講座があった。講師は40代の山本昭宏(神戸外大准教授)さん。専門は日本近現代史、現代文化学、メディア文化史など。著書に『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』(中公新書)、『残されたものたちの戦後日本表現史』(青土社)、『原子力の精神史 〈核〉と日本の現在地』(集英社新書)などがある。講演趣旨、要旨は次のとおり。興味深かった。

2025年という区切り
市民運動の現在地点を、①メディアの視点、②戦後の視点、③「現在進行形の戦争」の3点を切り口に語った。共通するのは、人間が問われていることであるという。「戦争体験者」がしりぞき、「国家」と「市民社会」との緊張関係が、戦後80年を経てべったりとくっついてしまった。戦後体験も戦争も希薄化し、戦後とは異なる意味となり、「市民」という言葉の含意が薄れてしまった。

兵庫県知事選 世論とSNS
世論とSNS、斎藤氏再選。それらが公益通報者を自死に追い込む、恐ろしい時代となった。「新聞やテレビで(政治)情報を得る人っているんですか?」と言われる。「ネットに真実がある」とみんなが思い言う…。
多様性は単純化し、権力の監視や知る権利の確保など、既存メディアは「本当のこと言ってない」「既得権益」に見えるのかもしれない。

見たいものだけを見る?
消費者の快適さも娯楽も、政治も社会も同じコンピューター端末で見る。他者の視点、過去の視点があり、議論の対立や対話で変わっていくものなのに、エコーチェンバー(注①)という狭いコミュニティ現象や、フィルターバブル(注②)、イエロージャーナリズム(事実報道よりも煽情的事柄の報道)の状況に置かれる現代社会。とはいってもSNS以前には戻れないし、「SNSに踊らされる人々」と、「愚民」視するのは溝を深めるだけ。ネット時代の選挙、「ワンフレーズ政治」「再生回数稼ぎ」「暴露系ユーチューバー」「応援と対立陣営の引きずり落とし」などなど…。
*(注①)SNS上で自分と同じ意見がエコーのように帰ってくる情報環境。(注②)見たい情報が優先的に表示される、見たくない情報が遮断される現象。

問題をどこまで遡るか
小泉政権(テレビメディアとの相性、ワンフレーズ政治、小泉劇場・劇場型)~安倍政権~民主党政権~そして再び安倍政治。2012年以降のSNS時代を振り返ってみると2011年から15年は、まだ「社会運動の時代」だった。
それは、それ以前の土台があったからこそと言える。
第2次安倍政権以降のSNS定着、ベンチャービジネスで成功した人物やインフルエンサーが、かつての「知識人」の立場にとって代わったこと。そこでは、「言ってはいけないこと」を言わせ、様子を見る「観測気球」の役割を与えられた。そして集団的自衛権行使容認・特定機密保護法・安保3文書、いまロシアによるウクライナ侵攻などに至る。
問題の所在~現代日本における政治参加(動員)の技法。2025年の問題はどこにあるのか。政治参加の「技法」の工夫にあると思われる。究極的には「自分たちが誠実、かつ上機嫌に活動する姿を見せること」「そこにいけば何か気づきが得られるような場や関係をつくること」(すでに実践されている)である。

家永教科書裁判を語る日高六郎(1971年)

「市民運動」がやってきたこと
日本財団による18歳の意識調査では、政治についてSNSでやるのは「好ましくない」と感じている若者が比較的多い。それは理性的な判断でもある。
過去の運動からヒントをもらう。戦後の市民運動は「憲法の子ども」であった。
「声なき声の会」小林トミ。「私自身なんの組織にも属さない人間なので、いままでデモに参加したこともなく…毎日のニュースをいらいらしながら聞いていた…。」
日高六郎は、「無党派であること。政治的野心をもっていないこと。パートタイマー的参加者であること。自発的の、自腹を切って参加すること」と述べた(『1960年5月19日』岩波新書)。
丸山真男、「自由は置物のようにあるものではない。行使によってのみ、いいかえれば日々自由になろうとすることによってのみ、はじめて自由でありうる…」。何のために「する」のかという自己批判的な問い直しの必要性を述べている。「自分は自由であると信じている人はかえって不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることが怠りがち。じつは自分自身の中に巣くう偏見から最も自由でないことが稀ではない。自由はそこにあるのではなく、現実の行使によってのみ守られる」。

「人間の領域」の再確認
現在進行形の戦争・紛争の視点。ドローンやAIが実戦配備された新しい戦争は、人間が人間を殺すことの想像力を弱めていく。「殺していい人間」と「殺してはいけない人間」を区別し、人間が考えられないロジックで人間を殺していく。人間の領域が切り締められていく。
「不当な権力関係に批判的に介入する」という実践無くして、私たちは生きていけない、ということを重視したい。

私たちはどう生きるか、民主主義の実践
以上のような山本さんの提起を聞き、思ったこと。山本さんは「市民運動にかかわる人々、仲間が意見を交換する空間、時間」を作ってくれた。「現代の情勢から始めて戦後80年を、これから次につなげていくヒントを過去の市民運動の歴史を磨き直すことで引き出したい」という講演内容だった。自らも、それを共有し、「市民運動」を共に担おうとしている姿勢を感じた。質疑応答の最初に、「技法の問題ではない、共感力と感性の問題だ」との指摘があったが、「通時的(歴史的)理解を可能」にしたいという目的のためだったろうと、聞いた。(石田)