沖縄、構造的差別
昨年12月1日、「沖縄と差別」について学習会が大阪市内で開催された。学習会では『犠牲のシステム 福島・沖縄』(高橋哲哉著)、『希望』(目取真俊著)、『無意識の植民地主義』(野村浩也著)を参考に、意見が交わされた。
辺野古新基地建設における国・沖縄防衛局の「代執行」にみられる強硬姿勢は「沖縄への差別」以外のなにものでもない。また、ヤマトの私たちが傍観者のままでいられるはずもない。
野村は、沖縄に対する差別が植民地主義的差別であるにもかかわらず、まったく意識しないヤマトを鋭く告発する。高橋は、「犠牲のシステム」について、「或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等)を犠牲にして生み出され、維持される犠牲であり、犠牲者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」(42ページ)と、沖縄差別をヤマトの利益のための構造として捉えている。

反吐が出る「平和、癒しの島沖縄」
目取真は、「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」、さらに自らを抉るように「反戦だの反基地だの言ったところで、せいぜいが集会を開き、お行儀のいいデモをやってお茶を濁すだけのおとなしい民族。左翼や過激派といったところで実害のないゲリラをやるのがせいぜいで、要人へのテロや誘拐をやるわけでもなければ、銃で武装するわけでもない。軍用地料だの補助金だの基地がひり落とす糞のような金に群がる蛆虫のような沖縄人。平和を愛する癒しの島、反吐〔へど〕が出る」と書く。

「支援者」と同時に「差別者」
ある出席者から「辺野古でカヌーでの新基地建設阻止行動に参加しているが、それが野村の指摘するヤマトによる沖縄への植民地主義を克服できていると言えるのか」との発言があった。確かに、「沖縄への構造的差別」という現実を前に、カヌーでの阻止行動に参加することで自らのヤマト人しての差別性が免罪されるものではない。この発言を受けて、10年来辺野古の闘いに参加しているある出席者は、「同じジレンマは私にもある。自分に言い聞かせてきたのは、決して支援者としての立場を崩さないことだ」と語った。
ヤマトの私たちは「「支援者」であると同時に「差別者」として「沖縄問題」の当事者に他ならない。では私たちは何をするべきなのか、何ができるのか。

ウチナ―とヤマト 協働を終えていない
現在沖縄の地で新たな自衛隊・米軍の軍事基地建設と機能拡張が急ピッチで進められている。その一方で、辺野古でのカヌーによる阻止行動も最近では10艇前後まで減少し、時にはわずか数艇の時もある。ゲート前抗議運動も、安和、塩川、宮城島と4か所に増え、参加者も分散せざるをえない厳しさがある。さまざまな葛藤を抱えながらも、今できることは「現場」に足を運ぶという簡潔な行為だ。
2014年7月7日以来、3800日を超えるゲート前座り込みと、海上阻止行動、数々の集会、学習会等々が実行されてきた。「人」が声を上げること、そしてそれを「継続」することで、国・防衛省が当初目論んでいた10数年での新基地建設計画は遅れに遅れ、埋め立て工事の進行も20パーセント程度にすぎない。
ウチナーとヤマトの「協働」はその役割を終えていない。20年の歩みの中で、運動もまた深化してきた。平和への希求は決して止むことはない。(住田一郎)