1950年の前後、対馬・北西部の佐護湾に、数百体にのぼる水死体が流れ着いた。1948年の「済州島民虐殺4・3事件」の犠牲者と推測される。地元の江藤光さんが、地区住民とともに遺体を集めて山に埋葬し弔った。遺体には無残な姿もたくさんあったという。息子の幸治さんが、光さんの遺志を受け継いで、2007年に、故郷が見られるようにと、海の見える場所に供養塔を建立した。
 その話を伝え聞いた詩人・金時鍾さんの強い願いで、2014年に、第一回の慰霊祭が行われ、住民、日本各地の人びと、そして済州の遺族が集まり、朝鮮の伝統的な儀式「クッ」で、死者の魂を慰めるた。日韓の市民の「個人としてのつながりを大切に」して回を重ね、23年9月の第4回慰霊祭の日、金時鍾さんの詩碑が、供養塔に並んで建てられた(この日は、金さんは体調不良で不参加だった)。
 対馬に行くときにはぜひ訪ねたいと思っていたが、幸いにも2025年の年明けを対馬で迎えるという機会がえられた。
 詩碑建立を報じる新聞の記事・写真を唯一のたよりに、佐護湾沿いの道を行き来したが見つからない。あきらめかけた時に、ドライバーが「これかもしれない」と叫んだのが、車一台が通れるぐらいのガードレールの切れ目だった。なんの看板も標もなかったが、波打ち際に降りていく細い道があった。その先にその場所はあった。〔写真1〕

写真1:供養塔と詩碑

 碑には、済州島の形が線で描かれ、その中に日本語とハングルで詩が刻まれている。
〈常に故郷が/海の向こうに/ある者にとって/海はもはや/願いをつなぐ/祈りでしかない〉

 「4・3事件も朝鮮半島の南北分断も日本の植民地統治に由来する」ことを忘れてはならない。同時に、流れ着いた遺体を「隣の人」だからと、敬意をもって弔った対馬の人びとに心を打たれる。
 供養塔に手を合わせ、詩を読み、振り返ると佐護湾を囲む穏やかな山並みと、水平線まで青い大海原がひろがっていた。〔写真2〕

写真2:佐護湾と山並み

(金時鍾さんは、釜山の生まれ、母親の故郷である済州で光復を迎え、1948年4・3事件で追われる身となり1949年に日本へ。その後の足跡は読者がよくご存じだと思う。1月17日で97歳になられた。)
(文・写真 新田蕗子 2025年1月1日撮影)