
辺野古新基地阻止闘争にはヤマトからも多くの人々が参加している。「沖縄」に関わることを自らの課題とし、またそれぞれの生き方を背負った人々である。そのなかから私が出会い、この10年のうちに亡くなられた3人の方を紹介する。
「心さわぐ山原の歌」
高垣さんは、私と同世代だ。沖縄に移住し、辺野古のゲート前や安和桟橋での阻止行動に献身的に参加されていた。ゲート前では多くの歌が歌われる。その中の一曲「心さわぐ山原の歌」は彼の作詞である。この歌の元歌は、彼が青春時代に歌っていたという旧ソビエトの革命歌「心さわぐ青春の歌」だ。その最後のリフレーンを「海や森、空も澄めば、我が心は山原の地に」と歌った。
ソビエト革命への思いを込めた歌に、辺野古新基地阻止の強い意志を込めたのだろう。この歌は今もゲート前阻止行動で愛され、歌い継がれている。
間島さんは、元埼玉の養護学校の先生である。定年後に沖縄に移住し、カヌーによる阻止行動に参加されていた。亡くなられて、しばらくしたある日、ゲート前テントでKさんから間島さんの思い出をお聞きした。Kさんは、バイキング昼食を毎水曜日に準備してくださっている。「間島さんとは、高江のヘリパット建設阻止闘争以来の付き合いでした。彼が亡くなって残念です。彼を追悼して、同人誌に詩を掲載しています」と、しみじみと語ってくれた。私は早速、知人に頼んで同人誌掲載の詩をコピーしてもらった。Kさんの間島さんへの心のこもった追悼詩であった。
穏やかだったがヘビースモーカー
間島さんからはカヌーでの阻止行動の合間に、「すみやんから、部落問題についてじっくり聞きたい」と言われたことがあった。埼玉県での教員生活中、部落解放同盟員による不可解な「糾弾闘争」を体験していたのか、その時の疑問を解き明かしたかったようだ。残念ながらその機会は、もうなくなった。間島さんはめったに声を荒げることのない穏やかな人だったが、悪癖が一つ、ヘビースモーカーだった。カヌーに乗る時も、タッパーにタバコとライターを入れ、さらにビニール袋で厳重に保護して持参していた。休憩中、海の上で実にうまそうにタバコをふかしていたものだ。
西川さんには大変お世話になった。船長としてだけではなく、私の携帯電話が誤って捨てられたとき、コロナに罹ったとき、気軽にごみ焼却場や、病院に車を出してくれた。いつも朗らかに接してくれる彼に、何度救われたことか。数年前、脳溢血で倒れ千葉の病院で闘病していたが、コロナ禍もあって見舞に行けないままだった。今年2025年2月12日に永眠された。生前、彼と一緒に間島さんの遺影に手を合わせに行ったことを思い出す。
いまだ途上、意志は受け継がれ
西川さんとの接点は意外なところにもあった。ある時、宿舎の「クッション」で彼から、「すみやんが朝日新聞に掲載された投稿記事、『自己責任担い対等な対話を』(2001年6月2日付)を書いた当人だったとは知らなかった」と聞かされた。「実は、あの記事を批判材料に、部落解放同盟に連帯する労働組合員の学習会が東京で開催され、私も都の水道労組の役員だったので参加した」とのことだった。私の投稿記事への批判が東京で行われていたことを初めて知ったし、10数年後に辺野古でこうして「仲間」として出会うのも不思議な縁だと思ったものだ。
「辺野古新基地建設を止める」~彼らの強い思いは未だ途上だ。しかし、彼らの阻止行動が基地建設を確実に遅れさせている。なにより、彼らの意志はしっかりと私たちに受け継がれている。(住田一郎)
