
東日本大震災、もう14年ですね。あの日の、あの時間は三宮にいて、みんながスマホを見ていたので、聞きました。大地震と大津波、私はガラケーでした。
それから福島浪江町を何度も訪問しました。事前に予約し、浪江町役場に行きました。若い職員に震災のことをお聞きし、ていねいに教えてもらいました。東京での「平和美術展」の後にも訪問しました。「平和ツアー」でも、福島に行きました。避難所の訪問や、平和行進のコースにもなっており、二度参加しました。10年ほど前の平和行進でよく歩きました。東京から、なにかの合唱団の人も参加していました。一度は、大雨の中の行進でした。そのころは、まだ体力がありました。
浪江町は、震災後数年が過ぎていましたが、阪神淡路大震災の時のような様子でした。更地にもなっていないで、倒れた家がたくさんありました。福島で開催された平和美術展にも二度参加しました。
現在の浪江駅周辺は解体され、更地になっています。浪江町の駅も無人駅でコインロッカーもありません。開いているお店もほとんどありません。駅から20分ほど歩いた町役場のあたりは、スーパーとか住宅や学校があります。途中の家もほとんど無人です。
車は走っていますが、工事用のトラックが多いです。歩いている人は、ほとんどいません。町役場の近くの道の駅で、いつも浪江焼きそばを食べました。キャベツの代わりにモヤシが入っています。とても美味しく、気に入っています。コロナ前には、宮城県も訪問しました。
半鐘を打った女が流される 利秋
その現場、防災センターも訪問しました。多くの人が津波に流れました。マイクで避難を訴えた若い職員が流されました。懸命な悲痛な訴えに、地域の人は必死で避難しました。歩道橋に逃げて津波から助かった人もいました。その歩道橋の下を、知り合いが流されていったと聞きました。 りしゅう
