はじめに
被爆80年の4月、平和公園のいくつかの碑、ヒロシマ市内に残る被爆の跡、展示をリニューアルした資料館などを案内した。参加してもらったのは、市民運動で知り合った人、組合運動の先輩、広島で8月6日の集まりを共にしている人、小学校時代の同級生ら10人ほどの人たち。高校卒業まで広島で過ごし、「いろいろ見聞きしたこと」を振り返りながら、広島を巡った。(竹田雅博)

「話さなかった」人たち
私は原爆直後の生まれ、直接の被爆体験はない。当時、旧制中学の2年生、5年生だった兄2人が被爆し、下の兄は「焦げた弁当箱」だけを残し亡くなった。子どものころ、私の家族、親戚、近所にも被爆を体験した人はいたが、原爆のことを話す人は、ほとんどいなかった。やけどを負い背中にケロイドを残し生き延びた上の兄も、息子たちを捜すため翌日から広島市内を歩いた父も、原爆を話さなかった。何かのときに訊かれると「不機嫌になり、怒る」から、みな避けていた。
息子を亡くした母も、話すことはなかった。広島は浄土真宗の地であり、母親も毎日仏壇に向かうのを欠かさない人だった。私が中学生のころ8月5日の夕飯のとき、母親が「明日は、あれの命日じゃ。丁寧に念仏を唱えてやろう」と、ポツリと言った。そのとき、なにか妙な雰囲気になり、ふと父親を見ると声を出さずに滂沱と涙している。押し殺した声で「そがぁな(そのような)ことは言うな」と一言。押し黙って気まずい夕飯を食べた。
母親は高齢になり、介護施設に入居した。帰省し見舞いに寄ったとき、「あがぁな(あのような)ことは、二度とあって欲しゅうありません」と言ったことがある。その後は記憶も薄れたのか、話すことはなかった。

気持ちが悪かった原爆ドーム
「原爆ドーム」から、案内を始めた。ここを知らない人はいない。いまは保存補強され、少し頑丈そうにも見える。私の子どものころは、崩れ落ちそうな「汚く、気持ちが悪い」場所だった。側を通るときは、走って通り過ぎるようにしていた。川沿いの原爆スラム跡や、山上にABCCが見える比治山も、なんとなく不安を感じる風景。近づくのが嫌だった。NHKラジオが、毎日「きょうは原爆病院(広島日赤病院)で何人が亡くなった」と放送していた。
原爆のとき私は母親の胎内におり、母は市内から少し離れた郊外にいた。上の兄は大火傷を負い、焼け焦げ汚れた(汚染した)服のまま、かろうじて母の実家にたどり着いた。看病した母親は、後に「酷い火傷でも薬もなく菜種油を塗ってやったが、汚いし臭い。幽霊のようじゃった…。わが子ながら、看病するのが嫌だった」と言ったことがある。

佐々木禎子さんの死
小学生だった佐々木禎子さんが白血病で亡くなったとき、私も小学生だった。「ぼくは大丈夫なのだろうか」と不安に襲われた。被爆2世の知人の医師に、そのことを話したら「直後に、2人以上の被爆者と接した妊婦の子どもは胎内被爆にあたる」と言われたが、母親がどれくらい看病に付き添い、息子たちを捜しに入市被爆した父親と接したのか。両親とも他界し、確かめるすべはない。
それらの体験を思い出しながら、平和公園のいくつかの慰霊碑、市内の被爆地跡を案内した。説明にも含めたが、戦前広島には旧陸軍第5師団司令部が置かれ、陸軍船舶部隊があった。崩れかかったレンガ壁、歪んだ窓の鉄枠が並ぶ「旧陸軍被服支廠」(宇品港近く、出汐町)は、帝国日本の植民地支配により広島に暮らし、被爆死した約3万人の韓国・朝鮮半島出身者を弔う韓国人慰霊碑などとともに、「加害」を今に伝える場所でもある。

■案内した場所 原爆ドーム、爆心地「島病院」、住友銀行(「石段の人影」があったところ)、教師と子どもの像、321人が全滅した旧制2中慰霊碑。その朝、近郊の村から191人が市内に入り全滅した。村の女性75人が1日で夫を亡くした川内村の碑。韓国人慰霊碑、佐々木禎子さん折り鶴の像、中島町・福亀旅館跡(何も残っていない)、旧陸軍被服支廠(出汐町)、広島赤十字・原爆病院、「8月6日、7日、8日…没」の墓石が並ぶ寺町ほか。