放射線、熱線、爆風
「原爆ドーム」を知らない人はいない。しかし、被爆当時は産業奨励館だったこと、レンガと鉄筋コンクリートを併用したドーム屋根を持つ優美な建物だったこと、原爆が炸裂したとき30人余の人が、そこに出勤していたこと、もちろん彼らは全滅した。それを知る人は少ないだろう。
1945年8月6日、人類史上初めて原爆が投下された。米軍は、その効果が最大限に拡大するよう、上空約600メートルで爆発させた。建物は0・2秒後、太陽光の数千倍の熱線、秒速440メートルの爆風、1平方メートルあたり35トンの爆圧にさらされた。もちろん強烈な放射線が放たれた。爆心地から1キロメートルの放射線量は、ガンマ線だけでも4000ミリ、4Sv(シーベルト)に達した。半径500メートル、いまの平和公園付近は8~20Svとされる。4000ミリ~5000ミリSv被ばくの致死率は約50%、5000ミリSv以上は100%である。強烈な熱線と、秒速400メートル(台風の10数倍)という爆風による、高温火傷と負傷を受ける。

爆心直下で全滅した人たち
広島原爆の熱線による爆心地付近の地表温度は、3000℃に達した。「石段の影」になった人が座っていた旧住友銀行の石段は、ドームから200メートルくらいか。3000℃の熱線を受けると、人は即死というよりも「全身の血液が瞬間的に沸騰する」と、何かの資料で読んだ記憶がある。
1平方メートル当たり35トンの爆圧を受けた産業奨励館が、なぜ完全に倒壊し吹き飛ばなかったのか。真上からの衝撃波だったこと、爆風よりも瞬間的に早かった熱線により銅製のドーム天板が溶け、爆圧が吸収されたなどが考えられるそうだ。もちろん、建物内にいた職員30余人は全滅した。

「碑(いしぶみ)の まち」
島は「碑(いしぶみ)の まち」と言われる。平和公園内の50余に加え、市内には100以上の慰霊碑、記念碑、供養塔が佇む。被爆者であり、広島県教組委員長を務めた宅和純が『ヒロシマの碑』(同県教組発行)に、155のメモリアルを文章と写真で残している。
資料館の西側にある「国民学校の教師と子ども」の碑。いつも、ここから案内を始めることが多い。「太き骨は先生ならむ そのそばに小さき骨の集まれり」と、被爆した歌人、正田篠枝の歌が刻まれている。国民学校(当時の小学校)1、2、3年生の犠牲が多かった。高学年は、空襲を避けるため田舎のお寺や親戚に疎開していた。低学年は親許を離れるのは可哀そうと親許におかれ、被爆し多くの小さな子どもたちが亡くなった。子どもを抱く「教師と子どもの碑」は、公園の片隅にひっそりと、それを伝えている。つづく (竹田)