
「6日、7日、8日…没」の墓石
原爆ドームから、平和公園に入る元安橋。ここから北を見ると左手に寺町、右手に基町がある。寺町一帯には、本願寺別院をはじめ10数の寺院が並び建つ。それぞれのお寺に墓地があり、どの墓石にも「昭和20年8月6日、7日、8日没…」と刻まれている。
広島は西本願寺、浄土真宗が盛んな地。お盆には「紙の灯籠」をそなえる風習がある。初盆の人は白い灯籠、それ以降はカラフルな灯籠を立てる。お盆前に訪れると、どこの墓地も色とりどりの灯籠が賑やかに並んでいる。「6日、7日、8日…」に、苦しみ亡くなった人たちへの供養が集まっている墓地である。
「原爆スラム」と呼ばれた町
元安川の北、右手には基町が見える。かつては原爆被災者のため木造平屋、仮設のような住宅が並んでいた。その後、3階建てほどの鉄筋住宅となり、いまは高層の一般住宅となっている。夫を亡くした叔母も、そこに暮らしていた。『原爆スラムと呼ばれたまち』(あけび書房)に、戦後の町の様子が詳しく紹介されている。いまは高層の住宅が並ぶ、きれいな街。かつての面影はない。
折り鶴の像、福亀旅館跡
元安橋を平和公園側に渡ると、誰もが知っている『折り鶴の像』がある。被爆した佐々木禎子さんは、小学生のとき白血病を発症し亡くなった。禎子さんは、「千羽の鶴を折れば、病気が治る」と病床で折り鶴を折り続けた。碑には、修学旅行生たちが持ち寄る折り鶴が、絶えることがない。
そのすぐ右手、原爆ドームの川向いになる公園の一画は、原爆当時に旅館を経営していた福島和男さんの実家「福亀旅館」があったところ。いまの平和公園一帯の旧中島町は、当時は住宅、商店、映画館などが並ぶ広島の繁華街だった。その町は壊滅した。
福島さんは当時、中学3年生。その日は朝から勤労動員のため郊外の工場に出かけ、爆心直下だった実家での被爆を免れた。家にいた家族は、もちろん全滅した。「8・6ヒロシマ平和の夕べ」のプレ企画のとき、その被爆を証言してもらった。福亀旅館があったであろう辺りは、樹木も植わっていない小さな空き地になっている。
「国立」祈念館と「父を、母を返せ」
元安橋西から、川沿いに資料館方向へ歩く。途中、資料館とは別に「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」がある。原爆死没者を追悼し、亡くなった人たちの名前と遺影写真、体験記などを収集しており、閲覧できる。「国立」であるが、丁寧に資料を収集し提示している。被爆後を生きた、私の父親と長兄の名前と写真、短い体験記も収めてもらった。祈念館の資料は、ネット検索からも見ることができる。
平和記念資料館手前の小さな広場に、峠三吉の「人間を返せ」の小さな詩碑がある。「ちちをかえせ ははをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ…」は、情緒的に過ぎるだろうか。「死んだ人を返せ」には、核への激しい怒り、廃絶への希求が込められている。

碑の前に小さな広場があり、「被爆ピアノ」の矢川さんが毎年8月6日、ここで被爆ピアノ野外コンサートを開いていた。昨年G7広島サミットの後、その狭い広場にプレハブの「G7サミット記念館」なるものが建てられている。すぐ側の「被爆アオギリ」も、陰になってしまった。平和公園に似つかわしくない。広島市によると「次のサミットが開かれたら解体する」らしい、早く撤去してもらいたい。
(つづく) (竹田)
