
今は「時代閉鎖の状況」―ならば「声を立てよう」「みるく世を創るのはここにいる私たちだ」(『みるく世の謳』―沖縄慰霊の日、平和の詩より。上原美春著)
今夏を表現してみます。盛暑、暑熱、炎熱、酷熱など、文字だけでも熱くなってきました。
♪春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず 氷解け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと 思うあやにく 今日も昨日も 雪の空 今日も昨日も 雪の空 春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かるる 胸の思いを いかにせよとのこの頃か いかにせよとのこの頃か~♪(作詞:吉丸一昌、作曲:中田章)
『早春賦』です。口ずさんだこと、ありますか。中学校の教科書にも取り上げられているそうです。季節外れの一服の清涼剤?として、記してみました。作詞の吉丸一昌氏は、長野県安曇野の雪解け風景に感動して、この「早春賦」の詩を書いたと言われていま す。安曇野の寒さと、春の暖かさを歌った歌詞とされているそうです。この歌詞がつくられたのは、1913年。大逆事件の3年後に歌われたものです。(『風音』目取真俊著より)。

啄木の「時代閉塞」感
大逆事件の1910年、石川啄木が「時代閉鎖の状況」を記し、その中で「今や我々青年は…遂にその『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。…我々は一斉に起って先ず此時代閉鎖の現状に宣戦しなければならぬ」 啄木は大逆事件を生み出したのは「時代閉鎖の状況」であり、その現状の究極の責任者は「強権」であるとしています。新しい思想に生きようとした者たちが国家に弾圧され、想うことが言えなくなった時代であり、その時代に作られた歌であるということを知ったとき、この歌が別の意味に見えてきやしないでしょうか。「春とは名ばかりで、吹く風は寒い 谷のうぐいすは 歌おうとしているが まだ春は来ていないと声も立てない」。すでに全く新しい時代が始まっているように見えるのに、それは名ばかりで、巷には寒風が吹きすさんでいる。新しい時代を夢み、戦争への疑間や否定感を抱きながらも、そんなことを口にすることができない、何という時代なのだ、自分の言葉を、自分の生と死の意味を、この詩を書きながら「声を立てよう」と探していたのではないかと思います。
優性思想と適者生存
相模原事件から5年。「優生思想」という言葉が軽く扱われていないか(『世界』8月号2021年。誰がこの事件をもたらしたのか』上東麻子著より)
「優生思想」とはダーウィンの進化論、「自然淘汰・適者生存」の概念を、人間社会の説明にそのまま流用した思想だそうです(『機会不平等』斎藤貴男著)。「適者生存Jなのだから、現実に高い社会的地位を占めるものは優れた人間であるし、さらによりよく進化するためには、社会はその優れた者を支援し、劣ったものは抑制しなければならない。人種差別や貧困などの不平等、不公正は正当化される、この“真理”の前には無価値なものとされるのです。かつて安倍元首相は「美しい国、日本」「強い日本」と、所信表明を行いました。「美しい日本」「強い日本」を求めることは、それに反する人々の排除につながります。
生きる価値のある生命と、生きる価値のない生命の選別、そして差別。鍛えられる身体と破棄される身体の選別、差別、排除が必然的にもたらされました。
経済とは「経世済民」
新コロナのとき、感染者が三度、四度と爆発的に増えました。首都東京では第5波ともいえる感染者の数でしたが、菅首相は「重症者の数や、病床の利用率が低い水準だ」、だから「安全安心だ」と臆面もなく述べました。経済と人命を天秤にかけつつ、政治を動かそうとします。経済とは「経世済民」の略語とされ、「世の中をよく治めて人々を苦しみから救い、統治すること」であって、文字通り、私たちの命と暮らしがあってこその「経済」です。
「2020東京オリンピック」や、今も新自由主義経済が強力に推し進められようとしています。強烈な私的所有権の拡大、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で、個々人の企業活動の自由とその能力を無制約に発揮させ、金持ちの富と権利をさらに増大させようと、「国を愛せよ、それが公益を守ることだ」と主張し、世界市場の競争主体としての登場を目指そうとしています。無制限の、限りなき自由競争の新自由主義経済が「公益」そのものを飲み込もうとしています。
競争による格差拡大、差別と排除の拡大が「公益を守ること、そのもの」とされようとしています。「公益」のもとに、基本的人権そのものが制約され排除されてはなりません。国のための「済民」であってはなりません。私たちは「普通に生きること」を求めます。(嘉直)
