広島は「川の町」とも呼ばれ、市内に流れ込む太田川は六つの支流に別れる。爆撃の目標にされたという原爆ドームの側、Т字になった相生橋。ここから本川は西側を流れ、元安川が東を流れる。
いずれも原爆のとき焼け爛れ、瀕死の重傷を負った多くの人たちが吹き飛ばされ、水を求め飛び込んだ川である。1953年、広島県教組・日教組、市民が協力して制作された映画『ひろしま』(出演:岡田英二、月丘夢路ほか)にも、川に満ちた死者、負傷者が描かれている。本川に沿って慰霊碑、記念碑が並ぶ。それら碑を案内するとき、いつも平和公園南西に立つ「教師と子どもの碑」(連載3参照)から巡る。

321人が全滅した旧制二中
次に、1年生321人が全滅した「旧制廣島二中」の碑が本川沿い佇む。碑の裏面に、321人と教職員の名前が刻まれている。兄の名前も、そこにある。退職してからの10数年、毎年8月6日8時、旧二中から戦後は県立観音高校となった生徒たちにより、慰霊祭が行われる。私も、退職後は毎年参加している。父母はもちろん兄姉もすでに他界し、私のほかは誰もいない。8月5日、6日には、首相が空疎なあいさつを行なう式典をよそに、それぞれの慰霊碑でゆかりの人たちが集まり、慰霊祭や供養が行われる。

戻ってこなかった191人
二中慰霊碑の北側に、「義勇隊の碑」がある。しかし碑に残されているのは、義勇隊などではない。近郊の温井村(当時)から、「あの日」に広島市内の作業に動員された男たち191人が全滅した惨劇、悲劇、被爆死がある。191人のうち7人が、重傷、重症のうちに川舟や大八車で運ばれ、かろうじて帰村した。彼らを迎え苦悶の死を看取った妻たちの証言が『原爆に夫を奪われて』(岩波新書)に述べられている。
核が、原爆が「どのようなこと」をもたらすか、余すところなく証言され、読みながら絶句する。ぜひ一読を薦めたい。

「亀の背中」に載る韓国人慰霊碑
そこから少し北へ。「韓国人慰霊碑」が佇む。当時、日本が韓半島を植民地支配しながら、そうではない建前とする意図により、韓国の皇族の李鍝(ぐう)公を帝国陸軍中佐に処遇していた。広島に在任していた李公は、8月6日の朝、本川の西岸を馬上で出勤途上だった。
「韓国人慰霊碑」は、当初はその本川西岸にあった。私たちの若いころ、「朝鮮人差別により慰霊碑を平和公園から締め出した」と言われた。後に、李鍝(ぐう)公の被爆した場所に置かれたのが事実と聞いたが、韓国、朝鮮人被爆者への差別がなかったとは言えないだろう。その後、公園内に適地があり現在の場所に移設された。つかった広島市本川橋にあったが、のちに平和公園に移設された。「李鍝殿下ほか二万余の霊を祀る」と刻まれている。日本の植民地支配により、土地を奪われた人たちや徴用工とされた人たち、家族も含め原爆当時の広島に4万人を超える韓国、朝鮮人が住み3万人前後が被爆死したとされる。
慰霊碑は、亀の像の上に建っている。混雑を避けてか、毎年8月5日に碑前で慰霊祭が営まれる。在日の知人に「なぜ、亀の背中に置かれているのか」聞いた。「韓国では死者は亀の背中に乗って来世に向かう」という言い伝えがあるということだった。亀は朝鮮半島の方を向いている。(つづく)
(竹田)
