
「被爆アオギリ」を見てから、資料館(広島平和記念資料館)に入る。資料館はそれぞれの展示に説明文があり、個人的なこと以外は案内を省略した。今年2月、「展示資料の劣化を防ぐため、定期的に展示と保管を交替させております。今年2月から1年間、寄託いただいた弁当箱を展示することになりました…」と資料館から通知が届いた。
弁当箱とは、「連載1」に紹介した、被爆死した次兄のもの。私が小学生のころ、田舎の土蔵の奥に古新聞に包んで置いてあった。土蔵のなかで遊んでいたとき、「何だろう」と開いてみたら、汚いし、気持ちの悪いものが…そのまま、棚に押し込んだ。
原爆の後、兄2人を捜しに市内に入った伯父と父親が、中学生たち300人余が集合していた場所を捜し回り、「蓋の模様に見覚えのある」弁当箱を見つけ、持ち帰った。8月も下旬になったころだったらしい。持ち帰ったもののお墓に入れるとか、仏壇に掲げるようなものではない。そのまま土蔵の棚に置かれたままだった。
1995年ころ、被爆し生き残った上の兄が「いずれゴミになってしまう」と危惧し、資料館に寄託した。父親ももちろん、その兄もすでに他界した。「展示します」との通知は、末弟の私宛に届いた。
弁当箱は希望者があれば、保管庫から出してもらい見てもらっていたが、展示コースに出されたと知らせてもらい、何年かぶりに資料館に入館した。中学生たちの焼け焦げた衣類とともに、「小さな弁当箱」が置かれていた。保管庫にあるよりも展示されるなら、多くの人の目にふれる。少しでも「原爆」を知り、考えてもらうことになるだろう。外国人の中年の夫婦が熱心に見ていた。「どちらからですか」と聞いてみると、「from UK(イギリス)」と。「兄の弁当箱です」と言うとびっくり、言葉を失っていた。
被爆した弁当箱は複数あり、資料館に数個が保管されている。以前は、同じ旧制二中の同級生だった折免くんの弁当箱が展示されていた。ときどき入れ替えられるらしい。

旧陸軍被服支廠を巡る
宇品港に近い出汐町に、レンガ壁の「旧陸軍被服支廠」がある。1914年に造られ、軍服や軍靴などを製造、補給する施設だった。衣服や軍靴だけでなく、さまざま軍需物資を集積し、すぐ南の宇品港から輸送していた。戦前は、ここから短い鉄道が宇品港まで通じていたらしい。
東京に「被服廠」本部が置かれ、大阪にも支廠があったようだ。ここは、爆心地から2・6キロ。倒壊はまぬがれたが、窓の鉄枠などが歪んでいる。被爆直後は救護所になり、多くの被爆者が収容され亡くなった。戦後は、倉庫や学校の教室にも利用された。従弟の家が近くにあり、そんな施設だったとは知らずに、「探検遊び」に行っていた。
広島は第5師団、被服支廠、陸軍船舶部隊などが置かれ、戦前は「軍都」と呼ばれた。「だから原爆が投下された」と言う人もいる。私には、それはやや「後付け」理由のように思える。何年か前、ある女性の映画監督と話したとき、少し「論争」になった。「広島は軍都だったから原爆を受けた」「ヒロシマは加害の意識がない」と…。しかし、師団や軍事施設、軍需工場や軍港があった都市は、他にもあった。加害意識が弱いのは全国どこも、広島に限らないだろう。
「35万人の都市」への投下
アメリカは1945年7月、人類史上初めて世界に先駆け、3発の核兵器・原爆を完成させた。「核分裂エネルギーを兵器にした」のだ。ニューメキシコ州の砂漠で1発を実験爆発させ、威力はわかった。では「数十万の都市、人間に」投下すれば、どうなるのか。それが、アメリカが最も知りたかったことであろう。当時、広島には日本の植民地支配による、数万人の韓国・朝鮮人も含め、約35万人が暮らしていた。太田川支流の「7つの川」が流れる平坦な街、地形である。
さらにアメリカの最大の意図は、実際に「原爆の威力」を世界に見せつけ、「戦後世界支配への主導権」を確実にすることだったのではないか。1945年の8月上旬、日本の敗戦は既に明らかだった。原爆は、実験成功からわずか2週間後、広島、長崎に投下された。半藤一利・他編『原爆の落ちた日』(PHP文庫)は、開発から投下までの思想と戦略を、それらの視点から読み解いている。


広島赤十字・原爆病院
千田町にある日赤病院は現代的なきれいな建物になっているが、正面の看板はいまも「広島赤十字・原爆病院」である。多くの被爆者が、ここに収容され亡くなった。戦後10年、20年のころは普通に「原爆病院」と呼ばれていた。前の大きな交差点は、昨年まで「原爆病院前」と標識が出ていた。今年4月に訪ねてみると、なぜかその標識はなかった。
交差点の向かいには、かつて広島大学があり正門の両側に、「フェニックス」の大木が植えられていた。いま大学は郊外に移転し、法、経済夜間部が残っている。昔、ここに通っていた知人(故人)は、「毎日、向かいの病院で被爆者が亡くなっていく。たまらんかったよのー」と言っていた。

病院の向かいに小さな「原爆病院メモリアルパーク」があり、窓枠の歪んだ建物の一部が保存されている。(おわり)
(竹田雅博)
