
「亡くなった方々は救われませんよ」―自民党の西田昌司参院議員が「“ひめゆり”は歴史の書き換え」だと発言し、犠牲になったひめゆりの少女たちに対してこう述べた。
彼の発言は沖縄内外からの大きな批判を受け、議員は謝罪したが、「沖縄の人々の心を傷つけた」からであって、自身の「歴史認識」は間違っていない、とあくまでも自らの正しさを主張している。西田発言の何が問題なのか、「沖縄の人々の心」だけの問題ではない。
右派メディアが仕掛ける「歴史戦」
現在右派メディアが中心となって仕掛けているのが「歴史戦」である。「南京虐殺」や「慰安婦問題」等の歴史認識をめぐる批判や評価を、中国や韓国からの不当な「文化と歴史への侵略」と解釈し、日本人は「正しい歴史」をもって歴史問題の戦場で戦うべきだと彼らは考えている。今回の西田発言もその「戦い」の一つだ。「沖縄」は韓国や中国同様、日本という国家の戦争加害を告発する「敵」であり、しかも「内なる敵」である。西田が「アメリカが解放したと認識しているのが大きなまちがい」〈そんな展示解説などないにもかわらず〉と怒りをあらわにしたことにも、それがよく表れている。
尊く美しい自己犠牲の物語へ
彼らのような「歴史修正主義者」は、何を守りたいのだろう。彼らは「愛国者」を自負している。その柱は天皇制と大日本帝国だ。彼らにとって、大日本帝国は今も絶対的な権威と愛着の対象だ。大きな権威に寄りかかっていく心情を、心理学では「権威主義的性格」と呼ぶ。自分はちっぽけな弱い存在ではなく、強く偉大な国家の一員である、という自己像を作り上げることで自尊心を満たす。
こうした心情からは、国家による戦争の犠牲者はすべて、尊く美しい自己犠牲の物語に回収される。西田が、ひめゆりの少女たちが「救われない」と言ったのは、国家に統べられない死は「かわいそう」であるという意味だ。少女たちの死を卑しい「自己愛」のための「物語」にしたいという欲望はまた、沖縄戦をめぐる今日までの深い歴史考察を踏みにじる。

「国家と軍隊は住民を守らない」
今回の発言の文脈を見ると、もうひとつ気づくことがある。憲法記念日のこの日、西田は問題となった発言の前に、「非常緊急事態における国民保護」の必要性を訴えている。むしろ、こちらに主眼があったようである。ひめゆりに話が及んだのは、沖縄戦の実相が「国家と軍隊は住民を守らない」という、戦争の本質を暴いているからだ。
沖縄戦、そしてその前史である「琉球処分」から始まる「植民地主義」をめぐって、沖縄は、体験者たちの証言を積み重ね、長く深い研究を経て、厚みのある「歴史」を掘り下げてきた。西田はこうした沖縄の営為を「でたらめの歴史」「歴史の書き換え」と罵り、「教育が間違っている」と言う。彼らこそが歴史を歪曲しているにもかかわらず、自分たちの「自己愛」を満足させてくれない歴史は「過ち」と言ってはばからない。
守るべきは国家ではなく命
今回の発言をめぐって「歴史認識にはそれぞれの立場からの考えがある」といった、「中立」を標榜する言説がある。間違いである。歴史は常に新たな視点から問い直されるべきものである。それゆえ本来の「歴史修正」とは歴史学の根底であった。しかし、現在のいわゆる「歴史修正主義者」は全く別物である。彼らの主張は、たったひとつの正当化された「国史 national history」を作りだし、それを認める者だけに愛国者として共同体のメンバーシップを与えるが、それ以外の議論を封殺する。「自由主義史観」の「自由」とは、彼らが言いたいことを言うための「自由」のことだ。
沖縄戦の「歴史」は、今日、一国内の歴史認識を超え「安全保障」概念の転換を導いた。―「戦争に正義はない」「守るべきものは国家ではなく命である」という「人間の安全保障」の思想へ開かれてきたのだ。
(銘苅千栄子)
*写真は「沖縄戦」で住民が追い詰められ「自決」に至った南部戦跡、糸満市の轟壕、喜屋武岬(撮影:2022年11月、竹田雅博)
