空襲を記録する会の山本信季さん

第5回あかし戦跡めぐり(ピースウォークから数え通算15回)が行われ、78人が参加した。ガイドは15年連続し、お願いしている「ぶらり子午線観光ボランティアガイド」の牧野満徳さん(85歳)。
JR明石駅北口から北東へ、上の丸の大聖寺。ここに明石市と川崎航空機工業会社の二つの慰霊碑があり、戦災に遭った市民を慰霊する慰霊塔がある。住職の松尾義康さん(72歳)から、「1月29日の川崎航空機工場と6月月9日の明石公園付近、多くの犠牲者を出した二つの空襲の日の直前に、年2回法要をしている」と説明を受けた。
西に行くと、明石市立文化博物館。2021年1月に開設された「平和資料室」があり、参加者は明石市がまとめた冊子『明石の空襲』など資料を見ながら、市内の戦禍の展示を見学した。

碑は「記憶をつなぐ」
明石公園に入り、県立図書館の前に「明石空襲の碑」。40年前の1985年8月に碑を建立した「明石空襲を記録する会」副理事長の山本信季さん(写真:77歳)から説明を受けた。碑は「慰霊碑ではなく、明石市民が空襲の被害を受けたことを忘れないため」であることや、両親から聞いた明石空襲について語ってもらった。「父は川崎航空機工場で空襲にあったが、近くに落ちたのが不発弾だったため助かった」「母は、学徒動員で同工場に来ていた和歌山・田辺高女学生の寮母をしており、防空壕で多くの女学生がなくなったと聞いた」と話した。
公園内では、今は桜の名所の剛の池に空襲の後は死体が浮いていたこと、戦災にあった株立ちの木や、防空壕がたくさんあったことも紹介された。明石城内、いちばん高い天守閣跡から西を見ると、ガスタンクの向こうは川崎航空機明石工場があったところ。今はビルが立ち並ぶ市内は、空襲でほとんど焼失し、焼け野原になった。

ウクライナの戦火を憂う
明石城の二つの櫓の間、矢野蓉子さん(85歳)から、5歳のときに受けた空襲の話を聞く。1月19日、空襲警報を聞いて防空壕に飛び込んだ。7月の空襲は、疎開した神戸市の神出から赤く燃える明石の空を見たこと。矢野さんは「ロシアのウクライナ侵攻など戦争は絶対にいけない」と憂いた。
ガイドの牧野さんも、1月19日の空襲の体験を「戦闘機から機銃掃射を受けたが、姉といっしょに道路の溝に飛び込んで助かった」と…。昨年8月、朝日テレビで明石空襲のことが放送され、自身と矢野さんが取材され、今でもユーチューブで見ることができると紹介した。
市内の高校新聞部1年生13人も参加し、「学校では聞くことができない明石空襲の話を聞くことができて良かった」と感想を述べていた。市の広報も、初めて取材で同行した。(江戸)