96歳の今も、島袋文子さんは辺野古ゲート前で座り込みを続けている。車椅子のおばぁに寄り添って手助けしているのは、84歳の大城敬人(よしたみ)さんである。辺野古の基地建設反対運動には、お年寄りの姿が常にある。彼女、彼らを突き動かしているのは、骨身に刻まれた80年前の「戦世のあわれ」(注)の記憶だ。
沖縄戦当時16歳だった文子さんは、水を欲しがる瀕死の弟のために暗闇の中ようやく水を探しだして飲ませた。夜が明けて、その水が戦で死んだ人たちの血で真っ赤に染まった水たまりの水だったことを知る。14年前、辺野古反対運動の第二段階が始まった頃、おばぁは杖をつきながら、座り込みを排除しようとする機動隊員に対し「私は瀕死の弟に血の水を飲ませたんだ。二度と私のような体験者を出してはならないよ」と強く訴えていた。

命ある限り反対し続ける
おばぁの反基地への思いは強い。「戦後、住民が各地の収容所に収容されていた間に、米軍基地がつくられた。当時私たちには、反対する術はなかった。しかし、今なら辺野古新基地建設に反対の声を挙げることができる。戦争につながる基地に、私は命のあるかぎり反対し続ける」と語ってくれた。
大城敬人(よしたみ)さんは、12期40年を越える名護市最古参であり、県内最長の市会議員だ。84歳の現在もなお、議員活動と並行して精力的にゲート前阻止行動に参加している。議員活動を通じて沖縄防衛局から得た辺野古新基地建設の情報を、こまめに参加者にマイクで説明し、説明ペーパーを配る。12期にわたる長い議員活動は、誰にでもできるわけではない。大城議員の選挙カーの運転手としてかかわった友人は、「驚いたよ。選挙カーを止めて演説する場所が辻々で決まっている。市議会の状況を懇切丁寧に話す。一切手を抜かない。演説さなかに支援者から、大城さんご苦労様とペットボトルのお茶やお菓子が方々から自然な形で手渡される。こんな体験は初めてだ」と語っていた。

おばぁおじぃの思いは深い
大城さんの活動の根幹にも、沖縄戦の記憶がある。彼のライフワークの一つは、「戦時遭難船舶」問題である。対馬丸以外にも、沖縄県民が本土疎開のために乗船していた船が沈没しているが、何の補償もない。大城さんは、このことをずっと訴え続けている。
2020年7月15日、辺野古ゲート前で大城さんの議員勤続40年を祝う会が行われた。その時のスピーチで、辺野古基地反対のたたかいの原点について語られた。「戦争が終わって、食べるものが何もなかった。でも、海へ行けば魚やタコや貝などがいっぱい採れた。辺野古の海は、子どもらや家族たちの命を救ってくれた海です。『恩を仇で返すな』とおばぁたちも立ち上がった。これが辺野古の女たちの心意気だったのですよ」。

「日本軍が沖縄を守った」絶対ありえない!
先日はゲート前で、40年ぶりに昔の同僚との「同窓会」に京都へ行ってきたことを、楽しそうに話されていた。彼は京都大学職員組合の役員を勤め、その時は湯川秀樹教授も組合員であったそうだ。
基地建設反対を訴え続け94歳で亡くなられた嘉陽宗義さん、辺野古の入り口に新基地建設反対の横断幕を張った比嘉盛順さんも故人になられた。そのほかにもゲート前には、私がそのお名前を知らぬおじぃやおばぁたちの姿があった。娘や息子の車に乗って、あるいは自転車で、朝早く訪れて夕方まで静かに座り続ける彼ら彼女たちも、一人また一人と姿が見えなくなった。「戦世のあわれ」を刻み込んだ、おばぁやおじぃたちの基地反対への思いは深い。
西田発言の数日後のゲート前、文子おばぁは「日本軍が沖縄を守る?絶対ありえない!」とマイクを握った。(住田一郎)
*(注)戦世(いくさゆ)、沖縄戦があった時期をいう。「戦の世」。
*〔写真〕辺野古ゲート前、島袋文子さんと大城敬人さん。集会写真は、米軍キャンプ・シュワブゲート前(名護市)第50回県民大行動、約560人が参加し「県民を無視する基地建設やめよ」と訴えた。