喜瀬武原は、花の栽培で知られる緑に囲まれた集落である。集落のシンボルとなっている「三連水車」の傍らにはコスモスやひまわりが咲き誇り、沖縄の深い青空に映える。沖縄の花卉栽培の先駆けとも言われるこの地で、かつて激しい住民による抗議運動がたたかわれた。「復帰」後の1973年4月24日、米軍は喜瀬武原住民の生活道路である県道104号線を封鎖し、キャンプ・ハンセン米軍基地から道路をまたぐ実弾射撃訓練を実施した。

生活道路を越え砲弾
大口径の105ミリ、155ミリ曲射砲(核弾頭装備可能)から、沖縄県民の貴重な水源地でもある恩納岳・金武岳・ブート岳に砲弾を撃ち込んだのだ。沖縄県警は、この演習を警護するために1000名もの機動隊員を派遣した。
キャンンプ・ハンセンに挟まれている喜瀬武原地区にとって、国道58号と329号を結ぶ104号線は、重要な生活道路である。砲座から着弾地までは約4キロ、射程30キロの155ミリ榴弾砲は訓練区域をはるかに超える。爆発音や地響きに加え、砲弾の破片落下も頻発した。着弾地では木々が焼け、赤土がむき出しになった。水質汚染や海への赤土汚染も起きていた。

起ちあがる住民
喜瀬武原区民が立ち上がり、演習の中止を求めるたたかいが始まった。紆余曲折を経ながら、実弾砲撃演習は78年10月18日まで6年間、延べ21回実施されたが、抗議の声は沖縄県民の広範な抗議運動へ広がっていった。抗議運動に加わった青年たちは、鉄条網をかいくぐり、のろしを上げて仲間に知らせた。小屋を作り、砲弾の前に立った。時には、古タイヤを燃やし、煙幕で米軍の演習を阻止した。1976年7月1、2日には「学生が山に入っているから砲撃を中止せよ」との要請を米軍が無視して銃撃、学生の1人は砲弾の破片を受け重傷を負った。7名の労働者、学生が「刑特法」(日米地位協定に基づく刑事特別法)違反で逮捕され、起訴された。2023年12月12日は「喜瀬武原闘争」50周年にあたった。『琉球新報』は、この闘争を「大衆運動が歴史開いた」と論じた。

「君は」どこにいるか
海勢頭豊さんの歌、『喜瀬武原』を聞いたのは辺野古ゲート前だった。静かな旋律の中に、沖縄の抵抗運動の屈しない力を感じ、魂を揺さぶられる感動を覚えた。「喜瀬武原 陽は落ちて 月が昇る頃 君はどこにいるのか 姿も見せず」。刑特法に問われた被告7名の法廷「意見陳述」―、『キセンバルの火』(刑特法被告を支える市民の会編、現代書館、1978年12月1日刊)を読むと、いっそう、歌詞の状況が目に浮かんでくる。
喜瀬武原のたたかいは、生活者のたたかいである。軍事は、人間と人間の暮らしを破壊する。実弾砲撃演習に抗議する喜瀬武原住民集会で、児童生徒代表が訴えた言葉は「ぼくたちは美しい自然の中で勉強をしたいのです。国や県はぼくたちの勉強する権利を守ってほしい」であった。安心して勉強する、穏やかに家族みなで夕ご飯を食べる、孫たちと散歩する、…当たり前の暮らしを踏みにじっていく国家の暴力に抗う言葉だ。基地と軍隊に覆われた沖縄にあって、理不尽な人権侵害に対し、沖縄の大衆運動は時に自らの体を張った粘り強い抵抗を続けてきた。それは今も、辺野古新基地反対運動に脈々と受け継がれている。だから強い。
歌詞の中で繰り返される「君」とは、誰のことだろう。歌を聴くたび考える。「君」と呼びかけられる側に、私は立っているだろうか? あるいは、「君」を按じ、「君」の傍らに寄り添う私であるだろうか。『喜瀬武原』は声高な歌ではないけれど、その問いかけは深く厳しい。(住田一郎) *写真は恩納岳、金武岳に入山した学生、労働者ら、『キセンバルの火』(現代書館)より。