
社会民主主義は対案たりうるのか?
これまでマルクス主義的な階級闘争論、革命論の限界をさんざん論じてきたが、その対案としてまず浮かぶのは資本主義の改良を目指したベルンシュタイン路線だ。具体例として有名なのは、階級政党から国民政党への脱却を宣言したドイツ社会民主党の「ゴーデスベルク綱領」(一九五九年)だろう。各国社会民主党は、現実の圧力に押されて、いずれかの時点で同じような路線転換を強いられている。
「レーニン」に一区切りをつけた私の関心はこの社会民主主義に向かった。日本社会党も民社党も消滅したこの日本で考えれば、社民運動が答えにならないことは明白だが、ヨーロッパ諸国の社民運動は日本と違い、議会多数派を握って国家権力を運営している党派も多い。なぜ西欧型社民を目指したはずの民社党が「反共カルト」と化して泡と消え、「国民政党」に転換(一九八六年「日本社会党の新宣言」)した社会党がわずか一〇年で解党したのか。そもそも西欧型社民などは資本主義の補完物として否定すべきなのか。それとも日本と異なる条件下なら民主的で開かれた社会主義運動が存在しえるのか。
これは容易ならざるテーマだが、現時点での私の結論は、「社民運動」として一括りにできる普遍的な運動は存在しない、ということだ。日本社会党、ドイツ社民党、○○社民党、それぞれ性格の異なる政党と運動体が個々ばらばらに点在するだけで、その内実も各政党を構成する多様な階層の、その時々の要求を合算した偶然的な産物でしかない。
各国の社民運動は戦後の福祉国家システムを形づくる上でそれぞれが独自に貢献しているが、米国のように社民党が存在しない国でも現実には似たような福祉国家が形成されている。規格品の大量生産・大量消費をベースにしたフォーディズムと言われる生産様式の下では、労働者の完全雇用と賃上げが消費と需要をさらに拡大したのであり、資本蓄積のためにも福祉国家的在り方が必要とされたからである。
しかし七〇年代から資本主義の生産構造は大きく変容している。経済のグローバル化に伴う一連の構造的大変動が進展するなかで福祉国家も再編され、各国政府、各国社民党もさまざまに対応を迫られたが、問われている課題の中身は社民党があってもなくても同じである。グローバル化に伴う富の偏在と格差の拡大にたいして、旧来の福祉レジームによる再分配機能が麻痺しており、社会の分裂がますます深刻化しているという問題だ。
したがって私は問題を次のように再設定した。今日われわれが社民運動を目指すべきかどうかが問題なのではない。今日の資本主義の変動にどう対応すべきかについて、失敗も含め各国社民党の在り方から何を学ぶかが問題である。ただし、現状にもっとも適応しているスウェーデン社民党ですら暗中模索と自己変革の渦中にあり、いまだ答えにたどりついた者はいないのだが。
大量生産システムと戦後福祉国家
まずは戦後福祉国家についておさらいする。
旧来の農村的社会秩序が崩壊し、近代的大工業が台頭するにつれ、地縁血縁ネットワークが担っていた社会保障的機能を社会が代替する必要が出てくる。小さい子どもや高齢者の世話をいったい誰がするのか。不意にやってくる失業、ケガや病気に直面した時、いったい誰が労働者の生活を支えるのか。工業化に伴う生活リスクを社会が無視すれば、労働者は生きるために実力行使する以外ない。実際、マルクスの時代には労働者の生存闘争がストや暴動となって頻出した。社会が安定するためには彼らのリスク保障機能を国家が引き受けるしかなく、いずれの近代国家も必要に迫られて年金、医療、介護、保育といった領域で精緻かつ膨大なリスク保障のシステムを構築してきた。
戦後福祉国家の機能全体はフォーディズムとも呼ばれるが、狭義のフォーディズムはヘンリー・フォードが提唱した経営理念のことで、ベルトコンベア作業を細分化して効率化し、規格化された車両を安価に大量生産するとともに、「生産性インデックス賃金」を通じて労働者の賃金を自社製品が買えるレベルまで引き上げる、というものだ。これが大量生産→賃上げ→大量消費という資本の蓄積サイクルを生み出すわけだが、広義のフォーディズムは福祉システムを含む国家レベルの資本蓄積様式を指している。
先進工業国では大量生産・大量消費サイクルと福祉制度とが様々な形で結びついたが、日本の場合は、労働者のリスク保障の根幹が「企業ごとの福利厚生」という形をとった点に特徴がある。結婚すれば「配偶者手当」がもらえるし、子どもができれば「扶養手当」がつく。住居にしても大企業の社員なら寮や社宅を利用できるし、戸建てを買えば会社のメインバンクが優遇金利でローンを組んでくれる。医療健保は国保より安く、長期療養が必要なら「傷病手当」が出る。厚生年金は満期でざっくり二〇万以上、六万ぽっちの国民年金とは比較にならない。高度成長期には半熟練労働者でも引っ張りだこで誰でも就職できたし、就職すれば誰もが世帯を維持するだけの賃金を期待できた。彼らが消費者となって需要を押しあげていくので、企業にとっても労働者の福利充実は都合がよかったのである。
企業が男性稼得者に世帯賃金を保証することと引き換えに、育児や介護などのケアワークはもっぱら家族内の女性が無償で担った。「男性正社員+専業主婦」という家族モデルが、福祉システムと税制のすべての前提とされた。介護や保育などの公的ケアサービスは全体として見れば貧弱なままだったが、フォーディズムの時代にはこれで社会全体がそれなりに回ったのである。
こうして「社員になる」ということが労働者の生涯にわたる生活保障としての意味を持ち、意識にすりこまれたわけだが、日本で社会民主主義が根付かなかった構造的要因もここにある。この仕組みは骨格において今でも変わっていない。ちなみに高福祉と言われるスウェーデンでは賃金以外に「○○手当」の類を会社が支払うことはない。政府に高い税金を納めることが最大の生活保障なので、労働者が企業に忠誠を誓うこともない。
ドイツでは産別労組と経営者中央団体との交渉、従業員代表と個別企業による交渉という2つの系列を通じて労働条件が決められてきた。日本に比べれば、産別労組が強い分、社民党の影響力も強かったが、福祉システムの骨格は日本と似ている。「ドイツの社会保険は…男性労働者を中核とするもので、女性や子どもは扶養家族扱いだった。子どもや老人は家族が世話するものだという通念があり、それに従うかたちで、給付やソーシャル・サービスは構造化されていた。…家族でできることはすべて試し、宗教、チャリティ、コミュニティからの支援も使えないようなときのみ、国家は家族のニーズに応えなければならない」(1)。公的ケアサービスが乏しく、基本的に家庭内の女性が保育と介護を担うため、女性の就業率は低い。子どもが幼い時は仕事を辞めて育児に専念し、子どもが手を離れると低賃金のパート労働に従事する、という女性の就労パターンも日本と似ている。
「ポスト工業化社会」
高度成長期が終わり、七四―七五年世界不況を指標とする転換期を経て、資本主義は大きくその姿を変えた。これに伴って福祉国家もまた危機に陥り、再編を迫られていったが、その実像がわれわれの共通認識になっているとは言えない。
すでに六〇年代後半から世界的な過剰生産が顕在化し、自動車、テレビ、家電品、鉄鋼、繊維などの分野で激しい価格競争が続いて企業は利益を上げられなくなっていた。保護主義、賃下げ、企業合併などの試行錯誤を経ながら、今日まで生き残った大企業はそのほとんどが大量生産モデルから高付加価値生産モデルに移行している。
現在、収益構造において物づくりはごくわずかな割合しか占めていない。国境を越えて活動するグローバル企業は「もはや大量生産や大衆向けのサービスを企画したり、それを実践したりはしない。多数の工場、機械、研究所、倉庫などの固定資産を所有したり、これら資産を新たに取得したりすることもない。生産労働者の軍団も雇わないし、中間管理者も雇用しない。もはや、人々を中流階級に導く道としての役割も果たしていない…もっとも成長力があり収益力が高いのは、今や鉄鋼の鋳塊を長期間生産してきた、五〇〇〇人もの従業員を擁する一貫生産の製鋼所ではない。鉄鋼業で収益の中心となっているのは、特定用途向けに仕様された鉄鋼、たとえば腐食に強い鉄鋼製品(亜鉛メッキ鋼板)であり、自動車、トラック、電気製品向けに生産されている製品」で、「これを供給している鉄鋼会社は、…特定顧客向けにのみ生産する小さな製鉄所に過ぎない」(2)。
鉄に限らず、化学、繊維、半導体、あらゆる分野で、汎用品ではない、特定の需要に向けた特別仕様の製品とサービスが収益の柱となっている。試しに「日本を代表する」企業のHPをいくつか覗いてみよう。ソニーはもはやテレビ・ラジカセの製造業者ではなく、ゲームや音楽コンテンツの販売と金融を最大の収益源とし、映像や音楽関連の個別サービスを提供するグループ会社の集合体である。NECはかつて半導体やパソコンの生産で世界トップクラスの地位を誇ったが、利幅の薄いハードウェアの生産からほぼ撤退し、「社会的ソリューション事業」を収益の柱にしている。部外者にはにわかにイメージしづらいが、コンピューターとそのネットワークを用いて官公庁や工場、病院、流通現場などの業務全体を管理するサービスパッケージを販売しているという。かつての有力メーカーでも、シャープや東芝、三洋電機のように、大量生産モデルから高付加価値生産モデルへの転換に失敗した企業は「崩壊」した。日本経済の屋台骨をなす自動車産業でも、ガソリン車から電気自動車への移行に伴って同じ転換が問われている。
「古い大量生産方式の企業では、工場、設備、商品、それに巨額の従業員給与のような固定費は、適切な管理と予測を実現するために必要であった。高付加価値型企業においては、そんなものは必要のない負担である。本当に考えねばならないのは素早く問題を発見し、手ぎわよく解決することだけである…オフィスや空間、工場、商品といったものが必要となれば借りられるし、標準的な設備がなくて困るとなればリースすればよい。標準的な部品は、安売りをする生産者(その多くは海外にある)から卸値で購入すればよい。秘書、ルーティンのデータ処理者、経理係、それにルーティン生産の労働者は、必要となれば、一時的に雇えばすむ」(2)。
こうした構造的変化によって、一九七〇年を頂点に製造業従事者数は減少の一途をたどり、代わりにサービス産業従事者数が勤労者の七?八割を占めるようになった。「サービス産業」といっても、コンサルタントや技術者など高度な技能や知識を要する高給職と比較的単純で低賃金の職種に二極化し、数的にはその多くが後者―警備、介護、清掃、小売、飲食などの不安定で労働組合もないような仕事についている。
70年代になるとシステムが想定していなかった大量の長期失業者が生み出され、失業手当や生活保護、年金その他の給付が福祉国家の財政を圧迫した。何らかの転換が求められていることは誰の目にも明らかだったが、レーガンやサッチャーなどの新自由主義者は「福祉はムダだ」と言って給付対象を制限したり、市場原理を導入するなど徹底した福祉改革を施した。彼らの手で社会構造が大きく変化したことは確かだ。しかし、表面的な印象に反して福祉国家の骨格はそのまま生き残り、むしろ社会保障費は増額した。「福祉国家の主要プログラムである年金、疾病給付、失業給付は、手広さの面でも厚さの面でも、新自由主義が権力の座に上りはじめたときより今日のほうが優れている。新自由主義による福祉国家への攻撃の影響を主に受けたのは、困窮層を対象とした福祉であって、就労層対象の福祉ではなかった」(1)。日本で言えば、連合傘下の労働者は新自由主義の下でも福利の向上が図られ、それ以外の労働者が規制緩和の直撃を受けたのである。
構造的変動への対応は各国によって異なった。
英米とりわけ米国では労働規制緩和によって生活を維持できないレベルの低賃金が横行し、大量のワーキングプアが生み出された。仕事は豊富にあるが給与が安すぎて夫婦ともどもダブルワークという例が珍しくない。医療、保育、介護などのサービスは市場取引が基本である。サービス労働者の賃金が安いので、「家族は、清掃人であれ、ホーム・ヘルパーであれ、子守りであれ、…彼らのサービスを購入することができる。ただし、自分たちが低賃金労働者にならないかぎり」(3)。米国では精神病患者の最大の受入先は刑務所である(1)。
欧州では解雇規制や最低賃金制度を維持してきたので、アメリカほど格差はひどくない。しかし新規就労そのものが困難なため、労働組合や労働法制で保護されたインサイダーと、保護の枠組みから排除されたアウトサイダーに二極化しているという。人件費が高いので、掃除、洗濯、保育や介護などのケアサービスは家族が担う場合が多い。ポスト工業経済の圧力は、アメリカのように大量のワーキングプアを生み出すか、欧州のように大量の失業者を抱え込むのかという究極のトレードオフを突きつけている。
日本の場合、アメリカに比べれば雇用は安定しているが、規制緩和で低賃金のサービス労働が増え続けている点は欧州とも違う。労働組合の組織率は現在わずか一六%、構造的変動の矛盾は新規就労者や女性の失業、不安定雇用という形で表れている。特に不安定雇用の単身世帯、母子世帯は企業内福祉の恩恵に与れないため、収入、住居、医療、年金などあらゆる面で不利な立場に置かれている。
女性の学歴向上、男性世帯主の収入低下などを要因として女性の就業率はいずれの国でも上昇しているが、ケアワークを格安で調達できるアメリカを除き、家族内での無償のケアワークと家庭外での賃金労働という二重の負担が女性に課されることで、ドイツ、イタリア、日本、いずれの国でも出生率が激減している。人口が減れば戦後福祉システムを維持することも困難だ。保育士や介護ヘルパーの不足、低年金老人の増加、財政赤字の拡大といった形で、富裕層も貧困層も共倒れする危機が顕在化しつつある。
新たな再分配機構の建設が必要
こうした構造的変化がトランプ再選や都知事選における石丸現象の背景ともなっている。しかしトランプのようにいくら関税を課したところで、資本の構造変化は巻き戻せない。アイフォンが典型だが、台湾企業フォックスコンに委託している端末組立ての生産コストは価格のわずか2・2%。コストの大半は部品代で、液晶やカメラ、センサー、半導体などの特殊パーツを機動的に設計・生産できる部品メーカーと、端末の設計・製造・販売をマネジメントするアップル本体に金が流れている。仮に組立工場を国内に導入しても雇用に貢献する割合はごくわずかなのだ。
問題は、戦後の福祉システム、再分配機構がもはや機能していない点にある。生産性が向上し、社会が豊かになればなるほど住民の多数が貧困に陥る現実は完全に社会システムの問題である。生産構造の変動に対応した、新しい生産と再分配のシステムが求められているのだ。
ベーシックインカムも対案の一つで、実際にドイツ社民党は「市民金」と呼ばれるベーシックインカムを二三年から導入したが混乱に陥っているという。資本の民主化という構想もあるが、ここではいずれも検討する余裕がない。今回は、改良主義の生きた見本を示すスウェーデン型福祉国家の在り方を参照し、議論の叩き台としたい。
スウェーデンでは、近代社会で欠落する育児や介護などのコミュニティ機能を国家が全面的に引き受けない限り、人口が縮小し、国家が消滅するという危機感を、国民的コンセンサスとしてかなり早い段階で共有している(ミュルダール夫妻『人口問題の危機』、一九三四年)。実際にこれが制度化されていくのは60年代以降だが、「国民の家」という国家理念を掲げたスウェーデン社民党政府の手で住宅、介護、育児、教育の領域が次々に社会化されていった。日本なら家族内で女性が担って当然とされるケアワークを全面的に公的な責任としたのである。
「国民の家」構想は徹底したジェンダー平等を前提とする。女性もフルタイムで働くのが普通で、女性の就業率はきわめて高く、専業主婦はただの「失業者」とみなされる。男女を問わず年金支給額が個々人の納める税金の額で決められるため、なおのこと当然のように女性が働く。男性の育児休暇取得も一般的だし、夫婦が離婚しても血縁上の父親は子どもの養育費負担から逃げられない。女性の就労を保証するため介護や保育の責任は自治体が担う。保育士は公務員で、保育所は子どもの数に合わせて建設されるため、日本のように保育所の空きを待つことはない。介護ヘルパーも公務員として安定雇用されており、高齢者は子どもに頼らず自立生活を送る。教育費は大学まですべて無料、医療費も安い。年金は国民全員に一律最低一三万円前後(条件によって変動する)が保障される。合計特殊出生率は先進工業国の中でもっとも高い(1・5?2・0)。
こうしたシステムの前提に「レーン-メイドナー・モデル」と言われる独特の労使協定が存在する。意外なことに、福祉国家スウェーデンで解雇は比較的容易に行われる。スウェーデンの賃金は労働団体と経営団体の中央交渉で決定されるが、職種ごとに設定された統一賃金を払えば生産性の高い企業は余剰を生むし、生産性の低い企業は赤字になる。赤字企業は社会の足を引っ張るから積極的に退場すべきで、そうやって仕事を失った労働者は手厚い再訓練と教育を経てより生産性の高い業種で就職してもらう、というのが制度の趣旨である。こうして、労働者の平等な連帯賃金を実現しつつ熾烈な資本間競争を勝ち抜くという、両者のバランスを維持しようとしたのである。
男も女もガンガン稼ぎ、そのお金を税金に回して、かつて農村コミュニティが担ってきた社会保障機能を国家全体でまかなうというわけだ。こうした理念が国民的に共有されていること、これだけの福祉サービスを政府・自治体が大した赤字も抱えず提供していることは驚嘆に値する。
以上はあくまでも荒っぽい要約で、もちろん制度の詳細はもっと複雑だ。女性の地位が完全に男性と同権というわけでもない。グローバル経済の下で失業率が高まり、これまでの福祉レベルを維持するのはスウェーデンですら困難になっている。しかし、彼らは今でも制度の実験的手直しを進めており、これがどこに転んでいくのかはまだ誰にもわからない。無条件にスウェーデンを理想化することはできないが、せめてスウェーデンくらいの改良ができなければその先の話もむずかしいと思う。(掛川徹)
※『フラタニティ』38号より抜粋
(1) D・ガーランド『福祉国家』(二〇二一年、白水社)
(2) R・ライシュ『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』(一九九一年、ダイヤモンド社)
(3)G・エスピン?アンデルセン『ポスト工業経済の社会的基礎』(二〇〇〇年、桜井書店)
