金城実作 阿波根昌鴻像

6月4、5日は天皇一家の訪沖。機動隊はその警備で辺野古には出動できず、工事搬入は中止となった。せっかくの機会なので伊江島「わびあいの里」を訪れることにした。15年ぶりである。
5月の日本平和学会で、「わびあいの里」前事務局長さんの報告があり、あの膨大な資料の整理が進み、資料館がリニューアルしたと教えてもらった。伊江港から2キロほど、塔柱をみながら、たばこ畑に沿った道を歩いて「わびあいの里」に到着した。理事長の謝花悦子さんに、「辺野古での抗議行動に参加しています」と挨拶すると、「よく来てくださった」と歓迎してくださった。

膨大な量と時間の資料館
まず、リニューアルした資料館に向かう。玄関の明かりをつけると、以前は、島の闘いの記録写真や、生活用品、雑誌、写真、砲弾類、また各地からの激励・連帯の旗等々で埋め尽くされていた。その膨大なボリュームと時間の厚みに圧倒されたものだ。初めて見た人は、無秩序な「物の集積」とも見えようが、「がらくたの山が、人間の『おろかさ』と『たくましさ』を学ぶ資料」であると、展示室には書かれている。これらの「物」たちが語ることばを聴き取ることを、見る人が問われているのだ。
今回は各展示品が整然と展示されて、わかりやすくなっていた。それでも、まだ多くの書類、書籍、記録等が別の倉庫に保管されており、学者グループと学生たちの手によって整理が順次進められているとのことだ。玄関には金城実さんの彫刻が訪問者を迎え、庭には同じく金城作の阿波根昌鴻さんのやさしいお顔の像が設置されている。

「人とし生きるために」
展示の写真のなかに、「乞食行進」のあと北海道芦別の太平洋炭鉱労組から送られてきた小型トラック一杯の支援物資を受け取る、子どもたちの笑顔の写真も貼られていた。この太平洋炭鉱は1959年に閉山に追い込まれ、その時に炭鉱労組員が作った歌が、『人とし生きるために』である。歌は60年の三井三池炭鉱閉山阻止運動の中で歌い継がれ、今、辺野古ゲート前で歌われていることは以前に書いた。
展示を見た後、謝花悦子さんのお話を聞く。謝花さんは、4歳のころ「カリエス」に罹り、当時の伊江島では、この病気を治す医師も治療法もなく、ただ寝ているだけだった。父の友人であった阿波根さんが県と交渉し、謝花さんは本土の病院で治療を受けることができ、両足に障害が残ったが、命は助かった。その後、小学校にも通えなかった謝花さんは、阿波根さんの助言を得て東京の労働大学校で6年間勉強したという。
それ以後、阿波根昌鴻さんの平和への意志を引き継ぎ、「わびあいの里」で暮らし続けてきた。今は、車いす生活で本島の病院に通うときに、辺野古の現場を通過するだけなので、心苦しく思っているとおっしゃる。前の事務局長さんが辺野古での海上行動の船長をしており、またカヌーメンバーのNさんも月に一度、援農に来てくれているので辺野古の様子は身近に感じている、「島からだけど応援しているよ」と話された。

「非暴力」「土と農」
謝花さんはお話のなかで、伊江島や沖縄のきな臭い現状を目の当たりにすると、現在の自民党政治を変えなければならないと、もどかしそうに何度も強調されていた。
港に帰ると、フェリーターミナルに隣接する郷土資料館で「伊江島の戦争写真展」が開かれており、乗船の時間まで見ることにした。この写真展と伊江村が製作したビデオ『ドキュメント伊江島』には、阿波根さんと島ぐるみ闘争についていっさい触れられていない。なぜ、と疑問を禁じ得なかったが、島の外の人間には分からない複雑な思いがあるのだろうと、考え込んでしまった。
前回伊江島を訪れた折は、港で食べた路地物のトマトのあまりのおいしさに驚いた。島の人々の、土地と農への向き合い方が実感できる滋味だった。阿波根さんの闘いの原点に、「非暴力」がある。そのさらに足下に「土と農」が深く根を張っている。(住田一郎)